吉川元春との手合わせに勝利して、主人公札を入手したところ、自動的に毛利元就の札もGET!
どうやら、隆元・元春・隆景の三兄弟の札を全員入手しないと、元就札は得られないようになっているみたい。どこまでも毛利家につきまとう「3」という数字。
7月1日。
城の規模が大きくなると、それなりに画像も更新される。
1575年1月1日。
やった♪ ついに城主。
辞退するわけねーわな。さっそく山口城に赴任。
ねねの衣装もやや豪華に。
このようなちょっとしたイベントも発生。
1570年10月28日。敵対する大友家からヘッドハンティングを受けたけど…
丁重にお断り。
その直後、城井谷城の攻略に参加。
野戦で完勝。嘆く島津義久。
城も落とした。
めでたく戦功第一位。
立花城攻略においても、戦功第一位。
大友家の家臣・角隈石宗が城を明け渡し、毛利の軍門に下った。
角隈石宗…大友家臣。武田流、小笠原流などの軍学に通じており、主君義鎮の軍師を務めた。戸次鑑連の師匠でもある。義鎮の日向遠征に際して延期を進言したが拒否されたため、秘伝の書を焼いて出陣し、戦死した。【人物情報より】
部将に昇進。
三村家との親善申入れの主命。
当主・三村家親の居城・備中松山城へ。
現在の岡山県高梁市にあった山城。別名、高梁(たかはし)城。海抜約430mの山頂に本丸が築かれているので、登るのがかなりしんどい。
献金額は
兵糧売却の仕事で立ち寄った府内にて、島津義久と邂逅。
さらに、岡山城下の花房職秀を訪ねた折には
宇喜多直家を紹介してもらって、面会。
1568年1月1日。年最初の評定で、調略の方針を打ち出した元就殿に対して、異議を唱えてみる。
山中俊好も賛同してくれた。
大殿、さすがに物分りがよい。
で、受けたのは大筒購入の主命。
さっそく長船の鍛冶屋に飛んで5門製作を依頼。40日かかるとのこと。
その道すがら、岡利勝と会う。
幻庵おほへ書? なんでも礼儀作法の心得を記した書らしい。
時間があるので、岡山城下で浦上家家臣たちとも誼を通じておく。
3月30日、小浜の町。
勢いあまって[Enter]キーを押してしまい、誰が亡くなったのかわからなくなった。
7月1日、吉田での評定。
城内の練兵場で訓練。
平戸で出会った美女。
今治で出会った美女。
山吹城を訪問して、吉川元春殿にもご面会。
米の売買で利益を得る方法を少しかじった。
毛利輝元、元服。しかし、年恰好は父・隆元とあまり変わらん。
さて、気がついたら早くも1567年9月。月初めの評定で「鉄砲購入」の主命を受けた。
長船と雑賀の鍛冶屋に製作を依頼し、二つの町を繰り返し往復して調達。その合間をぬって、京に赴き、南蛮寺に寄付を施す。
さらに堺では、南蛮商館に寄って聖書と珍陀酒(赤ワイン)を購入。
仕官後は修業、兵糧売却、人物調査など、ひたすら主命の達成に努める。
信長のヤローに比べて、元就殿の反応が芳しいのがうれしい。
いつの間にやら、勲功が200を突破して足軽大将に昇進。
毛利家の勢力拡大も順調。
九州方面への人材調査の途中、赤間が関で出会った大内輝弘。周防大内氏の一族だが、大内義隆と対立して、九州の大友氏の客将となった男。したがって毛利氏とも敵対関係。
さすがに素っ気ない。
しかも、府内で会った高橋紹運や柳川の田北鎮周は、いきなり喧嘩を売ってくる。やはり、大友の息のかかった連中は、「毛利」と聞くと平静ではいられないようだ。
田北鎮周を斃したら、こんなものが入手できた。
さて、真面目にやり直し。
桶狭間の戦いである。
ということで、今川義元敗死。
戦いの直後に、藤吉郎はねねと結婚。
で、墨俣城の築城にも成功。
一夜城か否かは、ここでは触れられていなかった。
はぁ? それだけかい。
あのね、佐久間信盛とか柴田勝家といった織田の重鎮が相次いで失敗した仕事をやり遂げたんですよ。もう少し、評価してくれてもいいんでねえの。
やっぱ、織田はあきませんな。
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