蘭印攻略 その1
さて、これからメナドを拠点にして蘭印(オランダ領東インド)攻略を進める。ただ、史実での蘭印攻略は資源争奪がおもな目的だったが、今回は違う。それが何なのかはいずれわかるときがくる。
3月1日:アメリカ合衆国は戦時体制への移行において“戦争の準備をしよう”を選択したとのことです。
いきなり背筋が寒くなるような知らせだが、これは、オランダへの宣戦布告によって日本の好戦性が40を超えたためだろう。米国内において、次のようなことが起きるらしい。
●徴兵軍にスライダーが1移動
●タカ派にスライダーが3移動
●シカゴ(620)に工場+3
●平和時補正-25%(?)
●人的資源+200
3月6日:第13歩兵軍団(司令官・酒井隆中将)がマドゥラで上陸を完了。
3月7日:ドイツで“ラインラント進駐”が発生。
定番の歴史イベント。もはや解説する必要はないでしょう。
3月7日:第32歩兵軍団がバンジェルマシンで上陸を完了。
3月7日:第31歩兵軍団(司令官・石原莞爾中将)がポンティアナクで上陸を完了。
3月7日:第22歩兵軍団(司令官・藤江恵輔中将)がスラバヤ(ジャワ島東部の中心都市。軍港もある)で上陸を完了。
3月7日:第30歩兵軍団(司令官・植田謙吉大将)がバンカ島で上陸を完了。
3月7日:第3軍司令部がセマラングで上陸を完了。
3月8日:第12歩兵軍団(司令官・中川州男中将)がジョクジャカルタで上陸を完了。
3月8日:第10歩兵軍団(司令官・安藤利吉大将)がパレンバンで上陸を完了。
3月10日:第13歩兵軍団がチラチャップ(ジャワ島南岸の重要港湾)で上陸を完了。
3月10日:第32歩兵軍団がバリクパパンで上陸を完了。
密林を踏破して陸伝いに占領地を広げるよりも、連続して強襲上陸をかけたほうが攻略スピードは劇的に速い。
3月11日:我が軍がバタヴィアで敵軍と交戦。
ジャワ島のバタヴィアに駐留しているオランダの防衛部隊は、2人の陸軍少将が率いる2個師団。そこに第1騎兵軍団をはじめとする日本軍8個師団が殺到し、あっけなく粉砕。
このあたりにはバンドン要塞が構築されていると予想していたので、苦戦を覚悟していたのだが…。もっとも、史実で日本軍が同要塞を攻略したのは1941年3月。この世界での“現在”は、それより5年も前の1936年3月だから、まだ要塞は存在していなかったのかもしれない。
3月12日:第10歩兵軍団がオーストハーフェンで上陸を完了。
3月12日:第31歩兵軍団がタラカンで上陸を完了。
3月13日:第22歩兵軍団がマランで上陸を完了。
3月14日:第1騎兵軍団(司令官・東久邇宮稔彦王大将)がバタヴィアに到着。
とまあこういう具合に、破竹の勢いで強襲上陸・陸路侵攻を繰り返し、開戦から20日足らずでジャワ島を全島占領。
3月14日:第32歩兵軍団がサマリンダで上陸を完了。
3月15日:第12歩兵軍団がパダンで上陸を完了。
3月16日:第30歩兵軍団がデュメーンで上陸を完了。
3月17日:第22歩兵軍団がバリで上陸を完了。
3月17日:第31歩兵軍団がパルで上陸を完了。
3月19日:中国(国民党)は西安事件において“口約束だけはしておくか”を選択したとのことです。
3月19日:中国(共産党)が中国(国民党)との和平を受諾。条件は:元の状態への復帰。
史実における発生時とは大きなズレがある西安事件で、張学良に軟禁された国民党総統の蒋介石。しぶしぶながら共産党との和平を受諾。代わって、攻撃の鉾先を狡猾極まりない軍閥に向けた。
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