2011年5月19日 (木)

高日神社

昭和25年1月6日付 中国新聞

拳銃で射殺、口論の意趣ばらしから

4日午後5時40分ごろ、呉市和庄通り4丁目の高日神社付近で、同町人夫・大西輝吉君(22)が27、28歳くらいの男と口論、輝吉君はピストルで後頭部を撃たれてこん倒、共済病院に収容されたが、5日朝絶命した。呉署では直ちに現場検証を行い、関係者らの供述により容疑者として阿賀町海岸通りの大西政寛(27)を指名手配した。

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「悪魔のキューピー、ついに暴発」の事件。ただ、新聞では触れられていませんが、ここに至るまでには重要な伏線があります。

 同日の昼過ぎに、呉市本通の路上で見ず知らずの大西政寛大西輝吉は偶然に出くわしました。それだけなら問題ないのですが、人夫仲間と連れ立って歩いていた輝吉は酒の勢いもあって、大西政寛にいいがかりをつけ、おまけに彼の女房を売春婦よばわりしました。それだけでも大西政寛の怒りに火を点けるには十分ですが、あろうことかこの軽薄な若者は、名前を問われて本人の目の前で「山村組の大西じゃ」とブチ上げてしまったのです。

 その場は女房が何とか宥めすかして暴発を抑えたものの、悪魔のキューピー、このままで収まるはずがありません。山村組の若衆が手分けして大西輝吉を探し出し、高日神社に呼びつけて…冒頭の事件へとつながるわけです。

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 この時期の大西政寛、土岡博襲撃事件(実行犯・美能幸三)によって弟分の波谷守之とは敵対し、収監された舎弟分の美能とは塀の内外で別れ、加えて土岡襲撃の黒幕・山村辰雄には裏切られた形となっており、もはや自暴自棄で知らず知らずのうちに死に場所を求めていたのではないかという話もあります。

詳しくはこちらを↓↓↓

悪魔のキューピー―「仁義なき戦い」外伝・大西政寛の生涯
悪魔のキューピー―「仁義なき戦い」外伝・大西政寛の生涯

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2011年5月15日 (日)

鯛乃宮~山村辰雄組長邸

呉市東愛宕町にある鯛乃宮神社です。

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鯛乃宮といえば、思い出すのは祭りと第6号潜水艇殉難之碑

祭りは毎年11月3日文化の日に行われていました。というか、今も行われていると思います。三条通り界隈の祭りが廃れていく中で最も活況を呈していましたが、ここ数年は見物に訪れていないので…。

第6号潜水艇というのは、明治39年に建造された日本初の潜水艇でしたが、明治43年4月15日、山口県岩国市新湊沖での訓練中に事故のため沈没しました。

どういう経緯かよくわかりませんが、鯛乃宮神社の境内に碑が建立され、亡くなった佐久間艇長以下14人の乗組員の英霊が祀られています。死を目前にした状況の中で、乗組員全員が持ち場を守って冷静に行動し、海軍軍人の鑑と讃えられたとか。

この鯛乃宮、「仁義なき戦い」にも登場します。境内は小高い丘の頂に位置しているのですが、その丘の下にかつて山村辰雄組長の自宅があったため。

1949(昭和24)年8月、山村組長、大西政寛美能幸三の三人が山村組長宅に集まり、土岡組組長・土岡博暗殺の謀議がなされました。美能幸三はたまたま事務所に立ち寄ったところで運悪く企てに巻き込まれたわけですが、山村組長の宥めすかし・泣き落としのあげく、侠気を発揮して刺客を引き受けてしまいます。

で、9月27日、広島駅前の岡道場(岡組の賭場)付近で、美能幸三は土岡博を襲撃(前回記事参照)。阿賀で知らせを聞いた土岡の若衆・波谷守之は、その晩、単身で山村辰雄の自宅に殴り込みをかけ、大西をはじめとする山村組の面々(谷岡千代松・野間範男・鼻万三・原寿雄ら)の前であの有名な啖呵を切りました。

「あんたら、わしを撃つんなら撃ちないよ。その代わり、わしも一発だけは撃たしてもらうで」

結局、波谷は、年長の谷岡や大西の顔を立てる形で山村宅を後にしますが、それがこの世での大西政寛と波谷守之の別れになりました。本堂淳一郎著「悪魔のキューピー」では、最も胸に迫る場面の一つです。

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2011年5月11日 (水)

川原石漁港付近

昔(GEN3が小学校低学年だった頃まで)は、写真の場所に「青果市場」「魚市場」がありました。現在の「呉市中央卸売市場」からは直線距離にして約500メートル離れています。正面に見える白壁の建物は「クレイトンベイホテル」。オーナーは言わずと知れた…。

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昭和20年代には、魚市場の中に賭博場が開設されていました。「仁義なき戦い 死闘篇」や「悪魔のキューピー」(本堂淳一郎著)には、阿賀の土岡組が一時的に盆(賭場)を開いた、というような記述がありますが、実際は常設に近いぐらいの賭場だったようです。GEN3の祖父によると、当時、市場に隣接する川原石港から江田島への定期船が就航しており、島に渡る(または島から渡ってくる)高校生たちの一部も、時間つぶしに賭場で遊んでいたという話もありますので。

その土岡組が開帳した盆ですが問題がありまして、昭和24年当時、魚市場の理事に名を連ねていたのが、呉の山村組組長・山村辰雄。彼にしてみれば、自分が役員という立場でありながら、市場に落ちる金をよその組に掻っさらわれるわけだから、面白かろうはずがありません。加えて、江田島・高須海水浴場の事業や、呉中心部への土岡組の道場(常設の賭博場)開きなど、土岡側の勢いに押される状況が重なり、山村の不満は鬱屈していきます。

特に呉の常盆の際には、山村は博徒仲間を通して、警察を押さえるなどの協力をさせられており、「自分に力さえあれば」という鬱屈した思いから、勢力の逆転を狙って土岡組親分・土岡博の抹殺を企図するようになるのも不思議ではありません。

その後は…「仁義なき戦い」フリークならご存知のように、大西政寛が土岡組から離反&山村組へ → 美能幸三による土岡博暗殺未遂事件 → 美能の自首 → 大西による喧嘩殺人事件 → 大西と警官隊との銃撃戦&大西死亡、と続いていくわけです。

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ちなみに、山村組若頭・佐々木哲彦の実家は川原石で履物屋を営んでいたそうで。「佐々木履物店」というのは記憶にありませんが…もしかすると、この付近だったのかもしれません。

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2011年5月 8日 (日)

広島刑務所 呉拘置支所

現在の「広島刑務所 呉拘置支所」。古くは呉市吉浦にあることから「吉浦拘置所」と呼ばれていました。

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「悪魔のキューピー」大西政寛と、平成22年3月17日に逝去された美能幸三元組長が、兄弟分の盃を交わした因縁の場所です。大西は呉市会議員の傷害致死事件に連座して、美能は呉駅前での旅人射殺事件による収監でした。

時は1947(昭和22)年7月、場所が場所だけに盃や酒が用意できるわけもなく、腕に切り傷をつけてお互いの血をすすり合ったといいます。映画「仁義なき戦い」劇中でも再現された、あまりにも有名な場面ですね。

その数日後、大西が自らの腹をかき切って保釈出所したのも、この場所からです。

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2011年5月 4日 (水)

広公園

呉市が管理する公園。子供向けの遊具コーナーや運動場があり、また2003年2月には隣接して呉市総合体育館(オークアリーナ)も建設されたので、平日休日を問わず、利用客で賑わっています。

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太平洋戦争終戦からちょうど1年目の1946(昭和21)年8月14日、阿賀・広地区で戦後初めての盆踊り大会がここ広公園で開催されました。その盆踊り大会の最中に、阿賀・土岡組の大西政寛が小原組組長・小原馨ら二人の男の腕を斬り落とすという事件が起きています。

当時の土岡組は、下関の名門博徒・籠寅組と比肩されるほどの本筋者の博徒集団で、若衆に対する躾は相当厳しく、生活態度があまりに自堕落な者は土岡組入りを希望しても叶わなかったといいます。そうした連中が寄り集まって土岡組の悪口を吹聴する。最初は相手にしなかった土岡組も、次第に図に乗って騒ぐチンピラに対して「こりゃ成敗せんにゃいけん」ということになったのが、8月14日の夕方。

チンピラどもの姿を求めて、土岡正三や大西らが広公園の盆踊り会場に姿を現すと、連中はクモの子を散らすように逃げていってしまいますが、ただ一人残ったのがチンピラどもの兄貴格だった小原馨。

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彼は土岡組の面々に取り囲まれて盆踊り会場隅の暗がりに引っ張りこまれます。二、三の押し問答のあげく、土岡の舎弟・折見誠三が小原の左腕をかかえると同時に、すばやく鞘を払った大西の白刃が閃き、小原の左腕が地面に…。この後、小原を心配して駆けつけた小原組の磯本隆行も、大西に右腕を落とされてしまいます。

この事件を契機として、土岡組と小原組の確執は深刻化していくことになりますが、大西-小原間に個人的な怨恨はさほど残らなかったようです。そのあたりが阿賀者気質ということで、お互いの侠気を認め合っていたからでしょうか。ただ、小原の女房(清水光子姐)は「大西を殺る」と気炎を上げ、海生逸一(阿賀・呉の顔役)に諌められたとのことです。

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2011年5月 1日 (日)

JR呉駅

呉市の陸の玄関口。1日平均乗降客は12,960人(2008年度)。駅ビルは20以上のテナントが入る商業施設となっており、また周辺にはホテルや百貨店・ショッピングセンター、大学サテライトキャンパス、観光施設が集積して、都心の様相を呈しています。

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1947(昭和22)年5月、呉の新興組織・山村組の組員と旅(他所者)のヤクザとの喧嘩に端を発して、助っ人を買って出た一不良青年・美能幸三が旅のヤクザを射殺しました。場所は呉駅から5、60メートル離れたところにあった某事務所の前。

「仁義なき戦い(死闘篇)」に、その事件の状況を記した記述があり、その中に「(喧嘩に加わった山村組組員は)いまの(旅のヤクザ)に追いかけられて、川へ落ちとるよのう」というくだりがあります。この「川」とは堺川のことと思われるので、事件現場は現在の「山崎屋弁当」のあたりではないかと…。

この事件をきっかけとして美能幸三は山村組に入り(※)、やがて大きな抗争の渦に巻き込まれていくことになります。

※後年、美能さんが語ったところによると、彼は山村辰雄組長から盃をもらっていないとのこと。つまり、正式にはヤクザの親分子分の関係ではなかったということになります。衝撃的な事実です。

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2007年10月 9日 (火)

呉市内の新名所?

ごめんなさいm(__)m
のっけから、いきなり謝罪で始まります。

「写真で見る事件現場」のカテゴリーにUPしながら、ここで「仁義なき戦い」(広島戦争)関係のドンパチが起こったという記録はありません。
事件といえば、映画「海猿」のロケがここで行われたというぐらいで。

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「両城の200階段」です

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2007年5月 4日 (金)

樋上組長 射殺現場

昭和45年6月30日夜のできごと。

共政会副会長・樋上組組長の樋上実を、美能組組員が射殺。36年後のその現場です。

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2007年2月14日 (水)

阿賀昭和橋

呉市阿賀地区の現在の様子を…。

ここはちょうど西町のあたりです。(↓)は『最後の博徒』にも登場する大谷川。

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2007年1月15日 (月)

第2次広島抗争勃発の地

前回の記事と少々関係あり。

時は少し遡りますが、昭和38年4月17日午後11時20分、美能組幹部(美能幸三組長の舎弟)・亀井貢射殺現場です。

『仁義なき戦い 決戦篇』では「呉市今西通2丁目」とありますが、中国新聞の記事によると、現場はここになります。

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