2012年10月13日 (土)

土曜日の惨劇

1963(昭和38)年9月22日付 中国新聞

Doyoubi

またピストル撃ち合う-広島の繁華街

組員ふたり死傷
抗争、再び表面化

土曜日の宵。広島市内の繁華街でまたピストル事件が起き、ふたりが死傷した。広島県警本部と広島市内三署は4月から呉、広島でくすぶり続ける暴力抗争事件の再燃と見て厳重な警戒網を敷いている。

二十一日午後八時前、広島市下流川町東新天地広場近くで、打越山村両組の数人ずつがけンカ(原文まま)し、山村組、同市皆実町二丁目、宮木敏明組員(二〇)が右肩、右ワキ腹をピストルで撃たれ、同市幟町の病院に収容されたが重体。さらにその直後、二、三人が逃げる数人を追い、約七、八十メートル西側の同市流川町広島ビヤガーデン近くで一人がピストルで撃たれ、同市基町の病院に運ばれたがまもなく死んだ。広島県警本部と広島東署の調べで死んだのは同市吉島新町一丁目、打越組の谷村祐八組員(二一)とわかり腹巻きの中にあった実弾五発入りの回転式ピストル一丁とマッチ箱に入っていた弾十発、第一現場付近で薬きょう一個を押収した。

県警本部と広島東署は4月からの打越、山村両組の勢力争いによる抗争事件の一連とみて広島西、宇品各署の応援を求め、関係者から事情を聞き厳重に捜査し、二十二日午前零時半すぎから関係者宅三カ所をピストル不法所持の疑いで捜索した。

これで抗争事件による死者は六人、押収したピストルは二十九丁。

現場は広島市内の繁華街で土曜日の宵と重なって一時混乱した。

山村組関係者方への爆発物投げ込み事件からいったん平静になっていた抗争事件は再燃し、ピストル殺人事件でついに再び表面化した。県警本部は事態を重視して城内捜査二課長が現場近くの広島東署流川派出所で捜査を指揮し、数百人の警官が緊急配備についた。

宵の繁華街、市民の目の前で起きた事件だけに市民は異常な憤りを示している。ちょうど現場を通行中の会社員(二五)は「パン、パーンとピストル音が二度聞こえたとたん数人が走った。そのあとを二、三人が追い、一人に追いつきざま首筋にピストルでなぐるような格好で発射した」といい、東新天地広場に店を出している主人(五一)は「十人くらいの組関係らしい男がビールビンを持ってケンカし、すぐあとピストルの音がした。繁華街で撃ち合いがあるようでは安心して商売もできない。おそろしいことだ」と語り、近くのバーのマダム(四三)は「相つぐピストル事件以来、客が半減した。このままでは商売も上がったり。徹底的に捜査して一日も早く明るい街にしてほしい」と話していた。

死傷した組員二人(重体の宮木も3日後に死亡)の顔写真、以前に比べてヤクザらしい風貌になってきました。

二十歳の宮木敏明組員ですが、当記事以外の資料ではすべて“宮本”敏明となっています。

この事件の容疑で逮捕されたのは、打越会の柳秀雄ら5名、山村組の鄭照謨ら2名ですが、繁華街での傍若無人な乱射事件を重く見た広島県警によって、翌日、大物(?)が逮捕されました。山村組の山村辰雄組長と打越会の打越信夫会長です。

県警の“頂上作戦”によって、抗争当事者のトップ2名が戦場から隔離されたわけですが、その翌々日には、山村組員による神戸・山口組本家爆破事件、打越会員による山村組若頭・服部武宅銃撃事件と山村組長宅爆破未遂事件が起こりました。

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2012年3月 1日 (木)

樋上実射殺事件

1970(昭和45)年7月1日付 中国新聞

Hinoue

樋上組長射殺される

夜の呉市内 暴力団抗争が再燃

流れダマで市民負傷

対立の美能組員が自首

【呉】三十日夜、呉市内の繁華街の路上で暴力団組長がピストルで射殺され、通行人一人が流れダマに当たってけがをした。広島県警と呉署は暴力団の抗争事件とみて捜査している。

同日午後九時二十分ごろ「呉市中通四丁目の交差点で男がピストルで撃たれて血まみれになって倒れている」と通行人が呉署へ一一〇番通報してきた。同署で調べたところ、同時刻ごろ中通四丁目、銀座デパート近くの市道交差点で暴力団共政会副会長・樋上組、樋上実組長(四六)=呉市東中央一丁目=が同組の福森明組員(三〇)=同市荒神町=ら二人と一緒に歩いていたところ、若い男に至近距離で背後からピストルで胸、腹など全身に七発の実弾を受け即死した。同署は現場付近一帯で、薬きょう七個を押収した。
同署は全署員を非常呼集して捜査中、同九時半すぎ、呉署に「オレがやった」と暴力団美能組組員木元敏治(二三)=同市本通四丁目=が樋上を射殺したのに使ったとみられるコルト四五口径のピストル一丁を持って自首してきた。同署は重要参考人として調べていたが、ピストルから硝煙反応があったため同十時、木元を殺人の疑いで緊急逮捕した。この事件で付近を歩いていた呉市上畑町、中央ゴルフ場会計主任岡崎哲男さん(七〇)が流れダマを下腹部に受け、近くの中川病院に収容されたが、二週間のけが。

現場は同市本通り四丁目の国道一八五号線から西にはいった映画館やデパートが立ち並ぶ市内でもっともにぎやかな場所。樋上組長は交差点のほぼ中央に上向きに倒れており、付近一帯は血の海だった。樋上組長射殺事件に対し広島県警と呉署は第二、第三の事件発生に備え武装した私服警官や機動隊員約百九十人を市内要所に配備し、厳戒体制をとっている。

広島県警捜査二課と呉署は、自首した木元のほかにも共犯者がいる可能性があるうえ、樋上組長の射殺事件をきっかけに、暴力団抗争が再燃する恐れもあるとして、国道三一号線や国道二号線を中心に検問を強化し、応援組員が呉市内にはいるのをチェックするとともに警官約八百人を動員、広島、福山、尾道、三原などの関係暴力団員の動向を警戒している。

報復の繰り返し

広島県警操作二課では、樋上組長射殺事件は、暴力団共政会山村組系の主流派と、村上組経反主流派の“血を血で洗う”抗争、対立の結果と見ている。
両派の抗争事件は、昨年十月中旬、共政会の山田久理事長(四〇)が村上組員にピストルで襲撃されたのが発端、同十一月中旬には、その報復として、村上正明組長(五三)の舎弟で、同組のブレーンだった呉市内の暴力団宮岡組の宮岡輝雄組長(四四)が、共政会山村組員らにピストルを乱射され射殺され、両派の反目は決定的となっていた。また、今度、射殺された樋上組長は、共政会主流派で、副会長のポストにあった。昨秋、射殺された宮岡組長と同じ呉市内をナワ張りとし、互いに勢力を張り合っていた、などの点から、同県警捜査二課では“万一、報復射殺事件が発生した場合は、樋上組長が狙われる公算が強い”とみて、対立する両派の動きをマークしていた。
また、共政会と対立関係にあった呉市の暴力団美能組の美能幸三組長(四五)が今秋、刑務所を出所するという事情もからみ、呉市を舞台とする暴力団抗争が再燃するおそれもあるとして、同県警と呉署は、五月初め、呉地区暴力団取り締まり本部を設置、これまで四次にわたる一斉手入れで五十四名を逮捕するなど、先制取り締まりを続けていた。それだけに、捜査陣のショックも大きかったようだ。
樋上組長は、四十三年五月、長崎刑務所を出所後、共政会の服部武会長(四五)ら同会幹部が服役中の同会にあって、山田理事長と協力して組織の立て直しにあたった実力者だった。また、樋上組長の射殺事件で暴力団抗争が一層エスカレートするおそれがあるため、同県警では、共政会主流派の服部派、十一会の動向、美能組の藪内勲幹部(三四)の動きについて、厳戒体制を強めている。

事件の表面だけを眺めると、わりとシンプルな対立抗争事件ですが、この後の動きが少々不可解です。

記事中にもあるように、この事件の3ヶ月後に美能組・美能幸三組長が札幌刑務所を出所します。時期が時期だけに出所は厳戒体制の中で行われ、刑務所から千歳空港までは北海道警の警察官が、羽田到着後は警視庁が身辺警護にあたるといった物々しさで、地元・呉からの放免迎えの面々が待つ品川プリンスホテルまで、何度もタクシーを乗り換えて向かうというありさまだったそうです。

それはともかく、美能組長は樋上組長射殺の責任を取る形で極道からの引退を決意し、その後、関係者が一同に会して美能組長引退後の呉・広島について話し合う場がもたれますが、メンバーは服部武・原田昭三・山田久(以上共政会系旧山村組)・竹野博士(共政会系十一会)・美能幸三・藪内威佐男(以上美能組)・小原光男・坂本忍(以上小原組)。そう、樋上組関係者の出席がありません。今後にしこりを残すことなく、四方円満に収めようとするなら、ここに樋上組若頭(組長代行?)・長江勝亮の名があってしかるべきなのですが。

さらに言うなら、副会長という重鎮が殺られたにもかかわらず、共政会としては美能組に一矢も報いていません。もっとも、樋上組長の死は、美能組長が堅気になる(=極道としての生命を絶つ)ことでバランスがとれるという考え方もありますが、長江若頭以下樋上組の若衆としては到底おさまりがつかないでしょう。

事実、正延哲史著『最後の博徒』には、報復を実行しようとする長江若頭を波谷守之組長が押しとどめているとみられる記述があります。波谷組長としては、何とか広島抗争を終結に導きたいという思いからの行動ですが、共政会が組織として動かなかったことについては、服部武や山田久ら共政会幹部の面々に、波谷組長とは違った思惑があったのかもしれません。

いずれにせよ、樋上組残党に対する冷遇とも言うべき措置が、大阪事件(山田久襲撃事件)の際の長江若頭上阪拒否から絶縁処分へとつながっていくことになるわけです。

この事件が描かれたDVD(↓)

<東映オールスターキャンペーン>仁義なき戦い 完結篇 [DVD]

「仁義なき戦い 完結篇」です。映画では田中邦衛扮する槙原政吉(樋上実がモデル)は、白昼の呉市中通商店街で露天をひやかしている最中、広能組組員によって射殺されます。

「仁義なき戦い」のDVD、購入はちょっと・・・という場合は、レンタルという手も(↓)。

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2012年1月28日 (土)

呉中通サン劇前拳銃乱射事件

1971(昭和46)年1月17日付 中国新聞

Jingi04

呉で暴力団がピストル乱射

巻き添え市民重傷

樋上組? 美能組員を襲う

【呉】十六日夜、呉市内の繁華街で暴力団幹部ら二人がピストルで襲われ重傷、通行中の女子店員にも流れダマが当たり重傷を負った。さらに約二十分後この現場から約五百メートル離れた美能組組長の経営する事業所が襲われ、留守番中の同組員一人が重傷を負った。広島県警と呉署は、同市内で美能組の抗争中の暴力団樋上組関係者の犯行とみて呉署に美能組襲撃特別捜査本部を設け、県下各署に緊急配備、各地で検問をはって、厳戒体制にはいっている。【15面に関連記事】

美能組 幹部ら三人重傷

同日午後八時二十分ごろ「中通四丁目の路上で数人がピストルで撃たれた」と呉署に急報があった。同署で調べたところ、同時刻ごろ同市中通四丁目、サン劇前の市道で、暴力団美能組田島重徳幹部(三三)=同市和庄本町=、同小原組梅本輝行組員(二三)=同広町=が、突然一人の男にピストルを乱射され田島幹部が右腰、右腕の計二ヵ所、梅本組員は一ヵ月の重傷。
この乱射で通行中の同市棚田町店員清水美紀枝さん(一九)の右足にタマが命中、倒れたはずみで首の骨を複雑骨折し、同中央四丁目、大矢整形外科へ収容されたが二ヵ月半の重傷。
同署で捜査中、第一現場から約五百メートル東に離れた同市本通四丁目美能組藪内勲組長(三四)の経営する三平興業が襲われ、留守番中の高橋繁男組員(ニ九)=同市三城通二丁目=がピストルで三発撃たれ、うち一発が右足に当たり、後藤病院に収容されたが重傷。
同署の調べでは同夜八時ごろ、呉市本通三丁目付近で長江が田島ら美能組員とけんかとなり、同組員の一人が長江をなぐった事実もあるのと、高橋組員が「撃ったのは樋上組の長江だ」と言っていたことから、昨年六月三十日夜、第一現場近くの路上で美能組員に射殺された樋上組樋上実組長(四六)の跡目を継いだ樋上組二代目組長長江勝亮(三四)=呉市辰川町=の報復犯行ではないかとみている。

突っ込みどころが二箇所ほど。

二代目美能組「藪内勲」組長とありますが、一般的には「藪内威佐男」で通っていたはず。ずいぶん前にお亡くなりになりました。プロ野球選手(南海ホークス在籍)から転身した異色の極道として知られています。

もう一箇所は、最初から記事を丹念に読んでいくと、最終段落に「呉市本通三丁目付近で長江が田島ら美能組員とけんかとなり…」と、唐突に「長江」組長の名前が出てきます。これでは、予備知識のない読者にはわからんでしょう。

記事には「樋上組二代目組長・長江勝亮」とあります。実質的にはそのとおりですが、正しくは「樋上組組長“代行”」だったのではないでしょうか。

「仁義なき戦い」にはあまり登場しませんが、原作本には代理戦争開始直後に名前だけがほんの数行出てまいります。ところが、そこには「長江」ではなく「長上」、しかもご丁寧に「ながかみ」なんてルビまでふられて。どこかで間違いが生じたのでしょうけど、こんなことやってるから怒られるんですよ。

“最後の博徒”波谷守之組長は長江代行を高く評価していたらしく、波谷組長の手記をもとにした「最後の博徒」では、長江代行が共政会から絶縁されて侠道会に身を投じる決意を固めた際、波谷組長のもとに報告に来た時のやり取りが記されています。

===== 引用始まり =====
大阪で事件が起きて、共政会と侠道会が全面対決したとき、長江が訪ねてきた。
「叔父さん、私のようなガキを何度も説得して下さって有難うございます。今日からは、侠道会に従いて流れようと決めましたけん、報告に来ました。叔父さんの言うことを聞けませんでしたが堪えて下さい」
「わかった。長江よ、長生きしたら苦しいど。早うよい散り場所を見つけて散れよ」
私はそう言って別れた。
その後、月日がたって、長江は殺人未遂で十五年だったと思うが、長期刑をうたれて服役している。一審判決がでた時、あまりにも刑が重いので友人たちが控訴をすすめたが、長江は断わった。
「われわれヤクザ同士だけが、殺った殺られたということなら控訴するんじゃが、堅気の娘さんにまで怪我させちょるけん。わしの刑が高い安いと言ったら、娘さんの親御さんのバチが当る」
長江はそう言って服役したそうだ。
===== 引用終わり =====

長江代行、侠客ですねぇ。

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2011年12月 3日 (土)

住吉辰三射殺事件

1964(昭和39)年10月4日付 中国新聞

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共政会の組長を射殺 呉

ふろ帰り狙う
対立抗争か 夕方の住宅街で

【呉】三日夕方、買い物客など人通りの多い呉市内の住宅街の小路で、暴力団幹部がピストルで射殺された。広島県警と呉署は暴力団の対立抗争による事件とみて捜査している。

同日午後四時四十八分ごろ「呉市本通十五丁目で男の人がピストルで撃たれて倒れている」と通行人が呉署へ知らせた。

同署で調べたところ、同市本通十五丁目、上田ドレメ学院正門付近路上で、同市西鹿田町、共政会理事、住吉組住吉辰三組長(三九)が、付近の公衆浴場「衛生湯」から帰宅中、背後からピストルで左背部と左後頭部の二カ所を撃たれ即死していた。犯人は背後から一発うち、倒れたところへさらに一発うち込んだ形跡があり、後頭部へ貫通したタマが致命傷だった。

同署は上田ドレメ学院東隣の民家のミゾからタマ一発を押収したが、石がきにあたってつぶれており口径はわからない。

目撃者の話では犯人は年齢二十四、五歳、身長一メートル五、六十センチ、おも長、中肉で頭髪は五分刈り。灰色地に濃い灰色のタテジマもようの背広上下を着ており、犯行後電車通りに走って引き返し待っていた二人とタクシーで逃げたという。

同署は特捜本部を設け、捜査を始めた。調べでは、前日の二日午後五時半ごろ、ヤクザふうの若い男三人が乗用車で住吉組長宅付近を訪れ「住吉の家はどこか」と近所の人にたずねており、三人との関連を調べているが、同署では対立する暴力団員の計画的な犯行とみて、非常警戒し、犯人を捜している。現場は同市本通十五丁目の市電停留所東側の休山に抜ける坂道(道幅約二・五メートル)の登り口から約三十メートル。住吉組長は同電停前からこの坂道を通って自宅に帰る途中、背後からねらいうちされたらしく、道路左側の石がきのそばに置いてあったバイクにくっつくようにして倒れていた。死体のそばには血糊が飛び散り地に染まったゾウリ、ぬれたタオル、カミソリが散乱していた。

被害者の住吉辰三組長ですが、「仁義なき戦い」の原作本(?)にはほとんど登場しません。ただ、“賭魁”波谷守之組長と懇意だったらしく、正延哲士著「最後の博徒」にはちょっとした記述があります。

一つは、初代共政会の理事長だった服部武との盃について、住吉が波谷に相談したというエピソード。もう一つは、住吉の若中と共政会・樋上実常任理事の若中との喧嘩に関して、やはり波谷が住吉を諭したという話です。
波谷組長によると、住吉辰三については「呉中の者がお人好しだと思っていた」ということで、警戒心の薄かったところをつけ込まれたのかもしれません。

新聞記事には犯人についての記述はもちろんありませんが、実行犯は当時小原組宮岡派に属していた荒岡満州雄(現・五代目共政会本部長)ほか二名。

荒岡本部長、のちに美能組入りしているはずです。おそらく宮岡輝雄組長が殺されてからのちだと思われますが。でも、三代目美能組の高松秀宗組長とはしっくりいっていなかったというような話を聞いたことがあります。どこからの情報かは忘れてしまいました。

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2011年11月 5日 (土)

山村組長邸爆破未遂事件

1963(昭和38)年9月25日付 中国新聞

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激化一途の暴力団抗争

呉、広島で山村組と打越組との抗争事件が続いているおり、二十四日、呉市で山村組長宅にダイナマイトが投げ込まれ、広島市内で山村組の幹部宅付近でピストルが撃たれた。

山村組長宅へマイト

導火線が消え不発

【呉】二十四日朝、呉市北迫町、暴力団山村組山村辰雄組長(五九)の本宅にダイナマイトが投げ込まれたが不発に終わったと呉署に届け出があった。

届け出によると、同日朝七時半ごろ、同家の女中三谷愛子さん(一七)がそうじのため表に出たところ表門から五メートルほどはいった石段のところにダイナマイトが投げ込まれていたもの。同署が調べたところ、長さ十八センチ、直径九センチのブリキの円筒の中にダイナマイト四本がつめられていた。幸い導火線二十センチを燃やして円筒の入り口で火は消えて不発に終わっていた。

同日午前一時半から同七時半までの間に投げ込まれたものらしく、広島、呉で抗争している暴力団員による犯行とみて、同署は爆発物取り締まり罰則違反の疑いで捜査している。
山村組長は広島市に本拠を移して以来、この本宅には月一、二度帰ってくるだけで、妻国香さん(四七)と女中のふたり暮らし、組員の出入りはあまりなかった。

前回の記事「亀井貢射殺事件」から始まった第二次広島抗争は、この1963(昭和38)年9月にピークを迎えました。

9月8日:可部温泉・松福荘で打越会系西友会会長・岡友秋射殺
9月12日:山村組本拠・キャバレー「パレス」爆破
9月19日:山村組幹部・原田昭三宅爆破
9月21日:広島市中心部で山村組・打越会双方の組員が銃撃戦
9月22日:山村辰雄組長と打越信夫会長逮捕
9月24日:山村辰雄組長宅爆破未遂

以後、抗争は下火になります。

ところで興味深いのが、「亀井貢射殺事件」の記事から“暴力団”の呼称が登場すること。前々回の「佐々木哲彦射殺事件」(1959年)までは“ヤクザ”という表現しか使われていません。

これは1964(昭和39)年の東京オリンピックを控えて「暴力犯罪防止対策要綱」が閣議決定され、警察庁による「第一次頂上作戦」が始まったことと関係していると思われます。

話は変わって、山村辰雄組長の晩年について少々。

高校時代の友人が山村宅の近所に住んでいたのですが、山村組長は重度の痴呆症を患って徘徊などしていたようで、道行く人に誰彼の区別なく「おはよ~おはよ~」と声をかけていたそうです。

そのため、近所の子どもたちの間では「おはよ~爺さん」と名付けられていたとか。古きよき昭和時代の話です。

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2011年10月10日 (月)

亀井貢射殺事件

昭和38年4月18日付 中国新聞

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呉市でまた暴力団が争う
幹部(美能組)射殺される
深夜、ピストルで

十七日深夜呉市の繁華街で暴力団幹部がピストルで射殺されるという事件が起きた。
午後十一時二十分ごろ、呉市堺川通八丁目、映画館二劇裏の路上で同八丁目、スタンドバー「クインビー」の経営者亀井貢さん(三六)=暴力団美能組幹部=がピストルで右胸を撃たれ血まみれになって倒れているのを通行人が見つけ、呉署に急報した。亀井さんはただちに呉共済病院に運ばれたが、出血多量でまもなく死んだ。
タマは右胸から右背中へ貫通し上着でとまっており、解剖結果を見なければわからないが、肺を貫通し出血多量が致命傷になったものらしい。
付近の人の話を総合すると同時刻ごろ、言い争う声がしたかと思うとピストルの発射音が二、三発聞こえ、現場から三人連れの若い男が中通方面に逃げる姿を見たといい、呉署では全署員を招集し非常警戒し、この三人組を追及している。

広島の第二次抗争の引き金となった「亀井貢射殺事件」です。
現場から逃走した“三人連れの若い男”は、山村組樋上派幹部の元中敏之(後の尾道侠道会会長代行)・上条千秋・中畑良樹。彼らは5月10日に逮捕されます。

Photo_2

興味深いのは、事件の背景を解説した「内部抗争が爆発」以下の部分。

「美能組長が山村組の幹部頭の地位にありながら山村組長や山村組幹部の意向を無視して三月末、関西きっての勢力である神戸山口会(田岡会長)と勝手に兄弟サカズキをかわしたことから八日、破門処分を受けた」

そりゃ美能さん、怒りますわな。それに「山口会」って何よ? 一時にせよ、山口組が山口会と改称していたのかと思って調べてみましたけど、そんな事実はありません。

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2011年8月21日 (日)

佐々木哲彦射殺事件

昭和34年10月8日付 中国新聞

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呉市の繁華街でピストル事件
元山村組幹部殺さる
数人で数発撃込み逃走

七日午後四時四十分ごろ、呉市中通六丁目の繁華街で同堺川通一丁目、土建業太陽興産社長佐々木哲彦さん(三七)がピストルで射殺される事件が起きた。

佐々木さんは広一ビリヤード=経営者住村勇さん=から中通六丁目大呉百貨店横の道路上に出て来たとたん、待ち伏せしていたとみられる三、四人連れの男がピストル弾数発を撃ち込み逃走した。佐々木さんは呉共済病院に収容されたが、頭部と左胸部の弾傷が致命傷となり、同午後五時二十分死亡した。
犯人のうち一人は二十五、六歳、一メートル六十センチぐらい、グレーの背広を着ており、現場から中通に向けピストルを撃ちながら逃げた。大呉百貨店のウインドーと現場近くにおいてあった佐々木さんの自家用車のトランク(荷物入れ)にそれぞれ一発ずつそれ弾が当たっている。ピストルは残された薬キョウから米軍用大型口径45とみられ、現場から薬きょう七個を押収した。繁華街での日中のできごとのため現場はごった返した。
呉署では呉港各桟橋、呉越など交通網の各地店に非常線を張るとともに、県警本部の指揮で広、西条、海田、音戸各署員約六百人の警官が応援、呉市を中心に検問所を設けるなど警戒に当たっている。
なお殺された佐々木哲彦さんは元山村組の最高幹部だったが昭和三十二年、独立して呉市堺川通一丁目に土建業太陽興産を設立して社長になったほか、ダンスホール「田園」やパチンコ店を経営、呉地区の屋外興行を請負っており従業員五-六十人を使っていた。事件はやくざ関係者の仕業とみられている。

大呉百貨店女店員の話
最初に四、五発ピストルの音が聞え、少したってまた三発聞えました。驚いて出てみると血まみれの男が倒れており、堺川通に向って一人、中通に向って一人、何か上着の下に隠すようにして逃げているのが見えました。

広一ビリヤード従業員の話
佐々木さんは自家用自動車で来て、三、四人でタマを突かれましたが、連れの人とひと足遅れて店を出たとたんにピストルの音がしました。

門さん事件に関連?
呉署などが厳重な警戒網

▽…日中、呉市第一の繁華街でピストルを乱射され死亡した佐々木哲彦さん襲撃事件は呉市で本年二度目のピストル事件で、幸い通行人にケガはなかったが、呉、広両署をはじめ応援の県警機動隊員が警戒に当り市内はものものしい空気に包まれている。事件の原因については呉署の捜査にもかかわらず七日夜十時までには手がかりをつかんでいないが、今年七月中旬、呉市広町で起きた小原組幹部の門博さん(二九)のピストル襲撃事件と、昨年十二月下旬、広島市平塚町で射殺された呉市本通十三丁目、野間範男さん(三七)の事件に関係があるのではないかとみて、背後関係を追及している。また広署でも小原組関係者の任意出頭を求め事情を聞いている。

▽…この事件は小原組の幹部、岡崎義之(二九)=逮捕ずみ=が小原組親分の襲名披露の前日、子分の脇武(二九)、大本信男(三六)、宮野首敦巳(二九)=いずれも逮捕=の三人に門さんの射殺を命じ襲撃させたもので、この動機の一つとして、門さんが岡崎の襲名にさいして岡崎と五分のサカズキを後見人の佐々木さんに申し入れ、反対に岡崎が門さんを殺害しようとした。また六月初め門さんの興行でプロ・レスリング大会が同市二河プールで行なわれ、この地域に勢力をもっている佐々木さんを相当刺激したようだ。このような事情からさきの門さんと事件とこんどの事件に関連があるのではないかとみて、呉、広両署で捜査を続けている。

佐々木さんの死体解剖

【呉】佐々木さんの解剖は同夜、香川警察医の手で行なわれたが、頭部、腹部、腰などに六発の貫通銃創があり、左肩から心臓を貫き右腹部貫通が致命傷となっていた。

「あの男が生きとったら、呉・広島のヤクザ地図は大きく塗り替えられとったじゃろう」

広島極道が異口同音に語る佐々木哲彦の死です。その筋ばかりでなく、堅気の人からもこの事件については話を聞かされました。

現在の事件現場です。

Photo_2

「ビリヤード広一」の看板が見えます。

未確認情報ですが(というか、もう確認する手立てはありませんが)、管理人の祖父は呉海軍工廠の職工時代に佐々木哲彦と同じ班で仕事をしたことがあるとか。また、遠い親戚には、太陽興産の従業員だった人(つまり佐々木組組員)もいました。

実録・広島抗争史 佐々木哲夫の生涯 完結編 [DVD]
実録・広島抗争史 佐々木哲夫の生涯 完結編 [DVD]

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2011年7月22日 (金)

山村組の内戦と旧土岡組の復讐

昭和29年10月5日付 中国新聞

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呉 血みどろの「やくざ爭い」

四たびピストル事件

地でゆく“邪魔者は殺せ”

さる七月三十日未明のナイト・ショウ殺人事件に端を発した呉市のピストル殺人事件は、ピストルの乱射ごとに尊い生命を奪い、六十八日間についに四回目の事件発生をみた。

恐怖におののく市民も警察当局も事件が全部関連性をもち、かつ続発が充分予期されるので、あらゆる方法で防止につとめていたが、ついに防ぎ切れなかった。

仕返しのためには手段を選ばず“邪魔者は殺せ”の映画ストーリィそのままである。事件の底を流れているのは二年前に親分を射殺された子分の仕返し、ヒロポン密売を独占しようとする新興勢力、戦後りょう原の火のように広がり、隆盛を極めているパチンコのかすりで生活しているやくざと、互いに勢力を伸ばそうとする悪の力とが入りまじり遠因、近因をつくりあげているわけだが、ここに五度目の血なまぐさい事件の起こらないことを祈りながらこれまでの事件を振り返ってみよう。

(1)ナイトショウ殺人事件
七月三十日夜山平辰巳さんはリッツ劇場でナイトショウを見て家に帰る途中、市内三条通踏切付近で高橋繁男と出会いいままでの仲違いに話をつけようとしたが、物別れとなったため、高橋はかっとなりこの日まで虐待された仕返しを決意、先き回りして山平さんが海岸通七丁目の自宅まで二十メートルという水ソウわきの暗ヤミにかくれて待ち伏せし、ピストルを乱射、鉄道線路伝いに逃走、射殺後自宅に潜伏をつづけていたが、十日目に逮捕された。

(2)ピストル乱射誘かい事件
ヒロポン密売で、にわかに勢を得た今田泰麿、荒木忠良、原田勲らは廿六年六月親分を射殺された仕返しを狙っていた河面清志、波谷守之らと結託、当面の邪魔者である佐々木哲彦さんをつけねらい、八月十七日未明、市内栄町呉劇前で佐々木さんをピストルで襲撃、逃げるのを追って乱射したが、その弾は幸い人には命中しなかったがつまづいて転んだ吉兼悟さんをラ致、自動車で逃走した。警察では直ちに弾こん、使用ピストルの調査を進め、あけ方になって表戸を開けた栄町マーケット青物商瓜生梅次さん方野菜置場で弾こん一ヵ所と、発射弾一発を発見した。

(3)無人島射殺事件
ラ致された吉兼悟さんの行方と今田らの逃走場所は、警察当局の必死の捜査にかかわらず判明せず、広島潜伏説、熊野町逃走説などが現われたが、八月二十六日岡山県で今田ら一味五名が逮捕せられてから波谷吾市さんの証言でにわかに好転、今田らは吉兼さんを安芸郡下蒲刈島村の無人島下黒島の松林の中で射殺したことを自供した。

(4)散髪屋殺人事件
九月九日午前八時ごろ、小原馨さんは阿賀町東延崎の小倉理容店でひげそり中、突如侵入した松本年春に射たれ即死、松本は自宅に潜伏、広署では直ちに非常線を張り、同日夜遅くまで検問をつづけたが、ついに発見できなかった。しかし明けて十日午前二時半、松本は広署員の急襲でついに逮捕となった。

(5)昭和橋殺人事件
五日午前零時十五分ごろ、波谷吾市さんは碁会所からの帰途、阿賀町東町昭和橋上にさしかかった際、背後から三発のピストル弾を浴びて即死した。いまや警察当局は懸命の捜査をつづけている。

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呉という狭い地域の中で、2ヶ月あまりの間に4人が犠牲になるという、かの“山一抗争”も真っ青の凄まじい殺し合いです。

山村組佐々木派 vs 山村組今田派+旧土岡組波谷守之一派という構図ですが、今田派には山村組の古参幹部である新居勝巳や大段茂がついており、実質的には一連の事件は山村組の内紛です。この内紛に乗じて佐々木派は今田派を一掃して山村組の実権を握り、親分を凌駕する実力をもつに至るわけですが、その結果待っていたのは、5年後の自らの死。なんともやりきれません。

「無人島射殺事件」の後日談をひとつ。

事件の主役・今田泰麿は服役中に、自らが射殺した吉兼悟に遺児がいることを知り、その子どものために獄中から長年にわたって仕送りを続けたそうです。

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2011年7月 4日 (月)

小原馨射殺事件

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憂慮される続発

土岡組との勢力争いが因?

小原さんの射殺

【呉】夕刊既報=一応静まったかとみられた呉のピストル事件は、九日朝呉市阿賀町、無職小原馨さん(二五)の射殺事件発生で、血が血を呼ぶヤクザ抗争の続発が再び憂慮され、市民の怒りをかっている。
広署では事件発生とともに署員を非常招集して犯人の捜査に乗りだし、同日午後には呉市阿賀町、無職松本年春(二四)を容疑者とみて行方を追及、県本部からは河原刑事部長、富浦鑑識課長ほか捜査官が現場にかけつけ、阿賀警部補派出所に特別捜査本部を設けて捜査に当たっており逮捕は時間の問題とみられている。

松本は去る八月十三日吉兼悟さん(二一)をラ致し、無人島で殺害した今田泰麿らが阿賀町から漁船で四国へ逃亡を企てたおり、船頭の役を勤め、その後姿をくらましていたもの。
捜査本部では松本の犯行とすれば(1)土岡組で居残っているものと小原さんとの勢力争いの結果によるものではないか(2)最近土岡組がヒロポンの今田らと結託して勢力を伸ばそうとして小原一派から何かにつけて圧迫を受けていたことなどから松本がだれかにそそのかされてやったものか、などが動機とみている。

松本は昭和二十三年強盗罪で広署に逮捕されたことがあるが、いわゆるヤクザとしてはどの派に属するか鮮明でなく、一応単独で犯行を企てるとは考えられないとされ、その背後関係の有無により事件が急を告げるのではないかとみられている。また小原さんの子分がこのまま黙っているとは考えられないところから、事件は意外な方向に発展する可能性が強いため、捜査本部では今後の動向を厳重警戒している。

衝撃的な事件のはずなのに扱いが小さいな、と思って読んでみると「夕刊既報」。この事件、朝の8時過ぎに発生したので、その日の夕刊に記事が掲載されたのでしょう。そこで、夕刊も探しましたが…見つかりませんでした。

事件経過を詳細に伝えたと思われる夕刊に比べて、この記事では、事件の背景と今後の捜査の見通しについて報じられています。

それにしても、これは言うなれば町内会のメンバー(幼なじみ)同士で殺し合いをする感覚ですから、激しいというか何というか…

“最後の博徒”波谷守之が後年、小原一家総長・門広「身内で事件を起こすエネルギーがあるなら、団結して外へ向ければ良かった」と語ったそうですが、やはり旅(呉・広島以外の土地)で苦労を積み重ねたあとでないと、そのような心境にはなれなかったのでしょうか。「井の中の蛙」と言われようが、殺伐たる世相の中で、その日その日を生きていくのが精一杯だったのかもしれません。

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2011年6月16日 (木)

土岡博射殺事件

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拳銃で射殺さる?

昨夜呉で 海岸通りを通行中

二十六日午後七時二十五分ごろ呉市阿賀町海岸通りで同町延崎土岡博氏(三五)は何者かに拳銃らしいもので後頭部を射たれて間もなく死亡した、同氏は二十五日夕方帰宅し二十六日旅に出るため海岸通りを通行中であった模様(呉)

えらくあっさりした記事です。土岡博組長の顔写真を拝めるかと期待していたのですが。

犯人・坂根鉄郎についての言及もありません。山村辰雄、あるいは坂根の親分・佐々木哲彦あたりから海生逸一を通して圧力がかかったのでしょうか。

土岡親分は前々日の24日に、賭博罪で服役していた広島刑務所を出所したばかりでした。犯人の坂根鉄郎も同時期に服役しており、美能幸三から土岡博を紹介され「叔父さん」と呼んで親しんでいた間柄だったといいます。

その日は雨。坂根は傘を傾けて顔を隠し、体ごとぶつかるようにして拳銃を発射しました。

この坂根鉄郎については、紹介しておきたいエピソードがあります。

彼が土岡博射殺事件の刑を務めて出所したとき、かつての親分・佐々木哲彦はすでに凶弾に倒れ組は壊滅していましたが、元組員数名が事業で成功していました。そこで、坂根の放免祝いに店を持たせてやろうという話になり、それを本人に伝えたところ、坂根は次にように答えたと伝えられています。

「ありがたい話じゃが、わしは残りの人生を苦労させた母親に孝行して過ごしたいと思う。わしに何かしちゃろうと思うてくれるなら、今後は道で会うても声をかけんでくれ」

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