呉中通サン劇前拳銃乱射事件
1971(昭和46)年1月17日付 中国新聞
呉で暴力団がピストル乱射
巻き添え市民重傷
樋上組? 美能組員を襲う
【呉】十六日夜、呉市内の繁華街で暴力団幹部ら二人がピストルで襲われ重傷、通行中の女子店員にも流れダマが当たり重傷を負った。さらに約二十分後この現場から約五百メートル離れた美能組組長の経営する事業所が襲われ、留守番中の同組員一人が重傷を負った。広島県警と呉署は、同市内で美能組の抗争中の暴力団樋上組関係者の犯行とみて呉署に美能組襲撃特別捜査本部を設け、県下各署に緊急配備、各地で検問をはって、厳戒体制にはいっている。【15面に関連記事】
美能組 幹部ら三人重傷
同日午後八時二十分ごろ「中通四丁目の路上で数人がピストルで撃たれた」と呉署に急報があった。同署で調べたところ、同時刻ごろ同市中通四丁目、サン劇前の市道で、暴力団美能組田島重徳幹部(三三)=同市和庄本町=、同小原組梅本輝行組員(二三)=同広町=が、突然一人の男にピストルを乱射され田島幹部が右腰、右腕の計二ヵ所、梅本組員は一ヵ月の重傷。
この乱射で通行中の同市棚田町店員清水美紀枝さん(一九)の右足にタマが命中、倒れたはずみで首の骨を複雑骨折し、同中央四丁目、大矢整形外科へ収容されたが二ヵ月半の重傷。
同署で捜査中、第一現場から約五百メートル東に離れた同市本通四丁目美能組藪内勲組長(三四)の経営する三平興業が襲われ、留守番中の高橋繁男組員(ニ九)=同市三城通二丁目=がピストルで三発撃たれ、うち一発が右足に当たり、後藤病院に収容されたが重傷。
同署の調べでは同夜八時ごろ、呉市本通三丁目付近で長江が田島ら美能組員とけんかとなり、同組員の一人が長江をなぐった事実もあるのと、高橋組員が「撃ったのは樋上組の長江だ」と言っていたことから、昨年六月三十日夜、第一現場近くの路上で美能組員に射殺された樋上組樋上実組長(四六)の跡目を継いだ樋上組二代目組長長江勝亮(三四)=呉市辰川町=の報復犯行ではないかとみている。
突っ込みどころが二箇所ほど。
二代目美能組「藪内勲」組長とありますが、一般的には「藪内威佐男」で通っていたはず。ずいぶん前にお亡くなりになりました。プロ野球選手(南海ホークス在籍)から転身した異色の極道として知られています。
もう一箇所は、最初から記事を丹念に読んでいくと、最終段落に「呉市本通三丁目付近で長江が田島ら美能組員とけんかとなり…」と、唐突に「長江」組長の名前が出てきます。これでは、予備知識のない読者にはわからんでしょう。
記事には「樋上組二代目組長・長江勝亮」とあります。実質的にはそのとおりですが、正しくは「樋上組組長“代行”」だったのではないでしょうか。
「仁義なき戦い」にはあまり登場しませんが、原作本には代理戦争開始直後に名前だけがほんの数行出てまいります。ところが、そこには「長江」ではなく「長上」、しかもご丁寧に「ながかみ」なんてルビまでふられて。どこかで間違いが生じたのでしょうけど、こんなことやってるから怒られるんですよ。
“最後の博徒”波谷守之組長は長江代行を高く評価していたらしく、波谷組長の手記をもとにした「最後の博徒」では、長江代行が共政会から絶縁されて侠道会に身を投じる決意を固めた際、波谷組長のもとに報告に来た時のやり取りが記されています。
===== 引用始まり =====
大阪で事件が起きて、共政会と侠道会が全面対決したとき、長江が訪ねてきた。
「叔父さん、私のようなガキを何度も説得して下さって有難うございます。今日からは、侠道会に従いて流れようと決めましたけん、報告に来ました。叔父さんの言うことを聞けませんでしたが堪えて下さい」
「わかった。長江よ、長生きしたら苦しいど。早うよい散り場所を見つけて散れよ」
私はそう言って別れた。
その後、月日がたって、長江は殺人未遂で十五年だったと思うが、長期刑をうたれて服役している。一審判決がでた時、あまりにも刑が重いので友人たちが控訴をすすめたが、長江は断わった。
「われわれヤクザ同士だけが、殺った殺られたということなら控訴するんじゃが、堅気の娘さんにまで怪我させちょるけん。わしの刑が高い安いと言ったら、娘さんの親御さんのバチが当る」
長江はそう言って服役したそうだ。
===== 引用終わり =====
長江代行、侠客ですねぇ。
| 固定リンク
「新聞で知る事件経緯」カテゴリの記事
- 土曜日の惨劇(2012.10.13)
- 樋上実射殺事件(2012.03.01)
- 呉中通サン劇前拳銃乱射事件(2012.01.28)
- 住吉辰三射殺事件(2011.12.03)
- 山村組長邸爆破未遂事件(2011.11.05)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント