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2011年5月28日 (土)

沖田秀数射殺事件

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話をつけに来て?射殺さる

呉で秋祭の夜の出来ごと

二十五日午前一時四十分ごろ呉市阿賀町郷小原馨氏方止宿人無職門広(二一)は同町ダンス教習所ドリームクラブ(前記小原氏経営)前路上で同阿賀西町二四九沖田秀数君(二一)を短銃で射殺、ただちに広署阿賀町派出所に前記小原氏に付添われて自首した
沖田君は右胸部を射抜かれて倒れているところ、折からジープで通りかかったニュージーランド兵クーパー伍長が進駐軍病院ならびに広空軍病院に運んだが間もなく絶命した

広署の取調べによれば門は二十四日午後九時ごろ同町神田神社祭●で沖田君とさ細なことから争いその場にい合わせた前期小原氏の仲裁で事なく済み、二十五日午前一時ごろ沖田君が小原氏宅を訪ね、「門を出せ」といったことに激興(原文のまま)射殺したもの、現場には沖田君が持っていたらしい新聞紙にくるんだ刺身包丁と帽子が残っていた

凶行に使った短銃はSWレボルバー(六連発)で自治警察が所持しているものによくにており同署では念のため国警本部に照会を発しその入手経路を調査中

大まかな経緯は新聞報道どおりのようですが、門広の回想によると…

わしが拳銃持って裏口からそっと出てみたら、沖田が日本刀を持ってるじゃない。ひょっとその横を見たら、女の子がひとりおる。恐らく沖田の彼女が心配して、一緒についてきたんじゃろうけど、命懸けの喧嘩に女を連れてくるヤクザも珍しいわね。

沖田はわしに気がつくと、日本刀抜きよって、今にも斬りかかってきそうじゃったから、わし拳銃を撃ったんよ。今じゃから言えるけど、その拳銃は山村組におった佐々木哲彦が持ってきたもので、進駐軍のMPが使うとった45口径。またよう当たるんじゃ、これが。夜の闇の中じゃけん、パーッときれいな火も出よったわ。

射殺された沖田秀数は“最後の博徒”波谷守之の舎弟(若中?)だったので、こののち30年近くにわたって二人の間には怨念がわだかまることになりました。

しかし、門が獄中にある間、波谷は門の身内に「仏みたいなこと」をしてその生活を支援していたようで、お互いが娑婆に戻ってからは「恩讐を越えた仲」になれたと、四代目共政会最高顧問 小原一家 門広総長は語っています。

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2011年5月22日 (日)

このサイトについて

当サイト管理人の地元である呉・広島では、過去長期にわたってヤクザ同士の流血沙汰が繰り返されてきました。俗にいう「広島抗争」です。

第一次から第三次におよぶ「広島抗争」は、終戦の翌年・昭和21年から昭和46年の四半世紀にわたって繰り広げられ、死者37名・負傷者66名という犠牲を数えてようやく終息に至りました。戦後のヤクザ抗争において、これほどの犠牲をともない、長期化した例は他に類を見ないと言われています。

なぜ、このような抗争が起こったのでしょうか。

「広島抗争」については数多くの文献によって糾明がなされていますが、その中では何といっても「仁義なき戦い」が秀逸でしょう。これは、抗争の主役の一人である呉市の美能組元組長・美能幸三氏が綴った獄中手記を、飯干晃一氏が再構成・脚色して世に送り出した作品で、東映で映画化されて大ヒットし、今なお多くの人々の関心を惹きつけてやみません。

ただ、映画では派手なドンパチに目を奪われがちですが、「仁義なき戦い」をはじめとする文献を丹念に辿っていくと見えてくるのは、極道・堅気の区別を超えた「人間」の物語なのです。

呉・広島を舞台に、これほど赤裸々な人間模様を綴ったドキュメンタリーは、この「仁義なき戦い」とやはり美能氏の手による「極道ひとり旅」、そして呉市阿賀出身の博徒・波谷守之氏の手記をもとに正延哲士氏が記した「最後の博徒」の他には見当たりません。

ここでは、それら文献や映画に登場する事件の数々を、当時の新聞記事や最近の写真とともに紹介しながら、呉の戦後史の裏側を独自の視点でたどってみたいと思います。

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2011年5月20日 (金)

「悪魔のキューピー」死す

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殺人鬼 二警官を射殺

犯人も拳銃自殺? 昨暁呉市の大捕物帳

屠蘇の香もさめない正月四日夕刻、往来でのささいな口論からけんかとなり大西輝吉君(二五)を呉市和庄通四丁目日高(原文のまま)神社に呼び出しピストルで射殺したのをはじめ、昨年十一月の福山競馬場での殺人未遂にも関係のあった殺人鬼ともいうべき人夫職大西政寛(二七)=呉市阿賀町海岸通り=を逮捕のためついに二人の尊い警察官の生命が失われた事件が発生した。この尊い犠牲の報にいまや全呉市民は限りない感謝を捧げている(写真は殺人鬼大西政寛=●)

“逮捕すれば射殺す”平素から離さぬ拳銃

殺人鬼大西は二挺の拳銃コルト、ローレル(いずれも八連発)をたえず身から離さず、もし警官が逮捕にくれば射ち殺すと放言していたという、事件当夜もこの二挺を所持しており両警官射殺に使用したローレルは八発中七発が発射され一発だけ残っており、コルトは八発装てんしたまま●●の中にしまってあった、発射されたローレル七発は最初の三発が鞆井刑事、次の三発が数田警部補にあたったものとみられ、残りの一発が大西死因究明のカギとなるわけである
事件当時警官側も一発を発射しており、●の死因については死体解剖の結果判明するとみられている

岩城は犯人隠避罪の疑

犯人大西政寛をかくまって「犯人●●ならびに●●罪」容疑で逮捕されている無職岩城義一●●●●とし子は三年ほど前に●●を買って移って以来、近所の交際は全然なく猛犬を二匹飼っており人が近寄れなかった、犯行のあった●夜近所の家でもピストルの音、人の立ちさわぎに目を覚ましたが当夜の模様をたずねても後難をおそれてかみんな恐怖の色をあらわして語ろうとしない、なお岩城には四人の子供があり人の出入がいつもはげしかった

(●は判読不能)

大西政寛vs警官隊の銃撃戦の場面は、さまざまな文献でいろいろ脚色されて紹介されているので、ここで改めて活字にするのは控えました。

ただ、あまりクローズアップされていませんが、従来のものとはまったく別の視点からこの事件の詳細を描いた文献がありますので、ご紹介しておきます。

血染めの黙示録―もう一つの『仁義なき戦い』
血染めの黙示録―もう一つの『仁義なき戦い』

それにしても、新聞記事中に“殺人鬼”という単語が頻出するのは、なんだか異様な感じがします。

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2011年5月19日 (木)

高日神社

昭和25年1月6日付 中国新聞

拳銃で射殺、口論の意趣ばらしから

4日午後5時40分ごろ、呉市和庄通り4丁目の高日神社付近で、同町人夫・大西輝吉君(22)が27、28歳くらいの男と口論、輝吉君はピストルで後頭部を撃たれてこん倒、共済病院に収容されたが、5日朝絶命した。呉署では直ちに現場検証を行い、関係者らの供述により容疑者として阿賀町海岸通りの大西政寛(27)を指名手配した。

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「悪魔のキューピー、ついに暴発」の事件。ただ、新聞では触れられていませんが、ここに至るまでには重要な伏線があります。

 同日の昼過ぎに、呉市本通の路上で見ず知らずの大西政寛大西輝吉は偶然に出くわしました。それだけなら問題ないのですが、人夫仲間と連れ立って歩いていた輝吉は酒の勢いもあって、大西政寛にいいがかりをつけ、おまけに彼の女房を売春婦よばわりしました。それだけでも大西政寛の怒りに火を点けるには十分ですが、あろうことかこの軽薄な若者は、名前を問われて本人の目の前で「山村組の大西じゃ」とブチ上げてしまったのです。

 その場は女房が何とか宥めすかして暴発を抑えたものの、悪魔のキューピー、このままで収まるはずがありません。山村組の若衆が手分けして大西輝吉を探し出し、高日神社に呼びつけて…冒頭の事件へとつながるわけです。

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 この時期の大西政寛、土岡博襲撃事件(実行犯・美能幸三)によって弟分の波谷守之とは敵対し、収監された舎弟分の美能とは塀の内外で別れ、加えて土岡襲撃の黒幕・山村辰雄には裏切られた形となっており、もはや自暴自棄で知らず知らずのうちに死に場所を求めていたのではないかという話もあります。

詳しくはこちらを↓↓↓

悪魔のキューピー―「仁義なき戦い」外伝・大西政寛の生涯
悪魔のキューピー―「仁義なき戦い」外伝・大西政寛の生涯

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2011年5月15日 (日)

鯛乃宮~山村辰雄組長邸

呉市東愛宕町にある鯛乃宮神社です。

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鯛乃宮といえば、思い出すのは祭りと第6号潜水艇殉難之碑

祭りは毎年11月3日文化の日に行われていました。というか、今も行われていると思います。三条通り界隈の祭りが廃れていく中で最も活況を呈していましたが、ここ数年は見物に訪れていないので…。

第6号潜水艇というのは、明治39年に建造された日本初の潜水艇でしたが、明治43年4月15日、山口県岩国市新湊沖での訓練中に事故のため沈没しました。

どういう経緯かよくわかりませんが、鯛乃宮神社の境内に碑が建立され、亡くなった佐久間艇長以下14人の乗組員の英霊が祀られています。死を目前にした状況の中で、乗組員全員が持ち場を守って冷静に行動し、海軍軍人の鑑と讃えられたとか。

この鯛乃宮、「仁義なき戦い」にも登場します。境内は小高い丘の頂に位置しているのですが、その丘の下にかつて山村辰雄組長の自宅があったため。

1949(昭和24)年8月、山村組長、大西政寛美能幸三の三人が山村組長宅に集まり、土岡組組長・土岡博暗殺の謀議がなされました。美能幸三はたまたま事務所に立ち寄ったところで運悪く企てに巻き込まれたわけですが、山村組長の宥めすかし・泣き落としのあげく、侠気を発揮して刺客を引き受けてしまいます。

で、9月27日、広島駅前の岡道場(岡組の賭場)付近で、美能幸三は土岡博を襲撃(前回記事参照)。阿賀で知らせを聞いた土岡の若衆・波谷守之は、その晩、単身で山村辰雄の自宅に殴り込みをかけ、大西をはじめとする山村組の面々(谷岡千代松・野間範男・鼻万三・原寿雄ら)の前であの有名な啖呵を切りました。

「あんたら、わしを撃つんなら撃ちないよ。その代わり、わしも一発だけは撃たしてもらうで」

結局、波谷は、年長の谷岡や大西の顔を立てる形で山村宅を後にしますが、それがこの世での大西政寛と波谷守之の別れになりました。本堂淳一郎著「悪魔のキューピー」では、最も胸に迫る場面の一つです。

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2011年5月12日 (木)

土岡博襲撃事件

昭和24年9月28日付 中国新聞

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白晝・繁華街で殺人未遂
火はく二挺拳銃
犯人悠々雑踏に姿消す

白晝の廣島市繁華街に二ちょう拳銃ひびく殺人未遂事件が発生し警察陣を緊張させた。
二十七日午後零時廿分ごろ廣島市猿猴橋町マーケット●飲食店森本君枝さん方●で呉市廣町阿賀土建業土岡博(●)同町河面清志(●)の両氏は突然何者かに二ちょう拳銃でねらわれ土岡氏は背中に、河面氏は後頭部にそれぞれ一弾を受け重傷を負った。付近の目撃者の話によると二ちょう拳銃の犯人は廿歳くらいの日ごろ見かけぬ背の高い男で四発をぶっ放し拳銃を捨てて雑踏の中へ姿をくらました。急報に接した廣島東署石光刑事係長、土井司法、常定捜査両主任ら約三十名が現場に急行したが、すでにピストルは何者かに持去られ薬きょう一つだけが落ちていた。同署では廣島駅前派出所を捜査本部として●●、参考人の出頭を求めて捜査を進めているが犯行は遊び人の出入ではないかと見ている。

【市場●乾物●●村行人さん談】
ピストルの音が初め二発聞え二人の男が入り乱れて私の家の前をかけ抜け、また一発音がしたかと思うと引返して家の前で一人が倒れ、その男に白、黒と二ちょうのピストルをもった一人の男が一弾頭にむけてぶっ放した、私たちが出ようとしましま(原文のまま)がピストルをあちこち振り向けたので怖くてとても近づけなかった。そのうち男はピストルを捨てて電車通りの方へかけて行きました、三十過ぎくらいの背の高い男だったと思います、ピストルはその後だれが持って行ったのか知りません。

容疑者の逮捕は時間の問題
ピストル殺人未遂事件犯人●探中の廣島東署ではその後現場付近で犯人のはきものと思われる血のついたセッタを発見、呉市から現場界隈によく出入りしていた遊人を有力容疑者として手配した模様で容疑者逮捕も時間の問題とみられるにいたった。

(●は判読不能)

昭和20年代の新聞をじっくりと読む機会なんて今までありませんでしたが、こうして旧字体や誤植の入り混じった記事を読んでいると、やはり時代を感じます。

それに、少々首をかしげたくなるような記述もいくつか…

(1)目撃者談話の中の文章。「。」であるべきところが「、」になっている。
(2)捜査員の個人名を新聞に載せている。
(3)「呉市廣町阿賀」となっている。
(4)犯人について、本文中では「廿歳くらい」、談話では「三十過ぎくらい」。
(5)この頃は派出所に捜査本部が置かれるのか。
(6)白い拳銃って…

記事中にはもちろん名前は出てきませんが、「呉市から現場界隈によく出入りしていた遊人」はすなわち美能幸三氏です。当時、広島駅前の岡組にわらじを脱いでいました。

二挺拳銃は、兄貴分の大西政寛から譲り受けたモーゼルと、岡組の近藤二郎宅から無断借用したコルトです。

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2011年5月11日 (水)

川原石漁港付近

昔(GEN3が小学校低学年だった頃まで)は、写真の場所に「青果市場」「魚市場」がありました。現在の「呉市中央卸売市場」からは直線距離にして約500メートル離れています。正面に見える白壁の建物は「クレイトンベイホテル」。オーナーは言わずと知れた…。

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昭和20年代には、魚市場の中に賭博場が開設されていました。「仁義なき戦い 死闘篇」や「悪魔のキューピー」(本堂淳一郎著)には、阿賀の土岡組が一時的に盆(賭場)を開いた、というような記述がありますが、実際は常設に近いぐらいの賭場だったようです。GEN3の祖父によると、当時、市場に隣接する川原石港から江田島への定期船が就航しており、島に渡る(または島から渡ってくる)高校生たちの一部も、時間つぶしに賭場で遊んでいたという話もありますので。

その土岡組が開帳した盆ですが問題がありまして、昭和24年当時、魚市場の理事に名を連ねていたのが、呉の山村組組長・山村辰雄。彼にしてみれば、自分が役員という立場でありながら、市場に落ちる金をよその組に掻っさらわれるわけだから、面白かろうはずがありません。加えて、江田島・高須海水浴場の事業や、呉中心部への土岡組の道場(常設の賭博場)開きなど、土岡側の勢いに押される状況が重なり、山村の不満は鬱屈していきます。

特に呉の常盆の際には、山村は博徒仲間を通して、警察を押さえるなどの協力をさせられており、「自分に力さえあれば」という鬱屈した思いから、勢力の逆転を狙って土岡組親分・土岡博の抹殺を企図するようになるのも不思議ではありません。

その後は…「仁義なき戦い」フリークならご存知のように、大西政寛が土岡組から離反&山村組へ → 美能幸三による土岡博暗殺未遂事件 → 美能の自首 → 大西による喧嘩殺人事件 → 大西と警官隊との銃撃戦&大西死亡、と続いていくわけです。

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ちなみに、山村組若頭・佐々木哲彦の実家は川原石で履物屋を営んでいたそうで。「佐々木履物店」というのは記憶にありませんが…もしかすると、この付近だったのかもしれません。

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2011年5月 9日 (月)

岡田茂・東映名誉会長が死去

岡田茂・東映名誉会長が死去(日本経済新聞)

時代劇や任侠映画で数々のヒット作品を生み出した東映の名誉会長、岡田茂(おかだ・しげる)氏が9日午前5時55分、肺炎のため、東京都内の病院で死去した。87歳だった。

1947年、当時の東横映画(現東映)に入社。プロデューサーとして太平洋戦争に出陣した学生の悲劇を描いた「日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声」の大ヒットで注目を集めた。その後「笛吹童子」などで「時代劇の東映」の名声を確立。

テレビの普及などで時代劇に陰りが見え始めると、「任侠映画」の路線を打ち出し「人生劇場 飛車角」「網走番外地」や「仁義なき戦い」のシリーズなどで観客の支持を集めた。

東映の京都撮影所長、東京撮影所長など、現場に長く身を置いた後、71年から93年まで社長、その後、会長、相談役に就任し、2006年に名誉会長。日本映画製作者連盟会長などを務めた。

「仁義なき戦い」の生みの親です。

この人の「絶対(映画化を)やれ」のひと言がなかったら、あの傑作が世に出ることはありませんでした。

謹んで冥福をお祈りいたします。

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2011年5月 8日 (日)

広島刑務所 呉拘置支所

現在の「広島刑務所 呉拘置支所」。古くは呉市吉浦にあることから「吉浦拘置所」と呼ばれていました。

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「悪魔のキューピー」大西政寛と、平成22年3月17日に逝去された美能幸三元組長が、兄弟分の盃を交わした因縁の場所です。大西は呉市会議員の傷害致死事件に連座して、美能は呉駅前での旅人射殺事件による収監でした。

時は1947(昭和22)年7月、場所が場所だけに盃や酒が用意できるわけもなく、腕に切り傷をつけてお互いの血をすすり合ったといいます。映画「仁義なき戦い」劇中でも再現された、あまりにも有名な場面ですね。

その数日後、大西が自らの腹をかき切って保釈出所したのも、この場所からです。

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2011年5月 4日 (水)

広公園

呉市が管理する公園。子供向けの遊具コーナーや運動場があり、また2003年2月には隣接して呉市総合体育館(オークアリーナ)も建設されたので、平日休日を問わず、利用客で賑わっています。

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太平洋戦争終戦からちょうど1年目の1946(昭和21)年8月14日、阿賀・広地区で戦後初めての盆踊り大会がここ広公園で開催されました。その盆踊り大会の最中に、阿賀・土岡組の大西政寛が小原組組長・小原馨ら二人の男の腕を斬り落とすという事件が起きています。

当時の土岡組は、下関の名門博徒・籠寅組と比肩されるほどの本筋者の博徒集団で、若衆に対する躾は相当厳しく、生活態度があまりに自堕落な者は土岡組入りを希望しても叶わなかったといいます。そうした連中が寄り集まって土岡組の悪口を吹聴する。最初は相手にしなかった土岡組も、次第に図に乗って騒ぐチンピラに対して「こりゃ成敗せんにゃいけん」ということになったのが、8月14日の夕方。

チンピラどもの姿を求めて、土岡正三や大西らが広公園の盆踊り会場に姿を現すと、連中はクモの子を散らすように逃げていってしまいますが、ただ一人残ったのがチンピラどもの兄貴格だった小原馨。

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彼は土岡組の面々に取り囲まれて盆踊り会場隅の暗がりに引っ張りこまれます。二、三の押し問答のあげく、土岡の舎弟・折見誠三が小原の左腕をかかえると同時に、すばやく鞘を払った大西の白刃が閃き、小原の左腕が地面に…。この後、小原を心配して駆けつけた小原組の磯本隆行も、大西に右腕を落とされてしまいます。

この事件を契機として、土岡組と小原組の確執は深刻化していくことになりますが、大西-小原間に個人的な怨恨はさほど残らなかったようです。そのあたりが阿賀者気質ということで、お互いの侠気を認め合っていたからでしょうか。ただ、小原の女房(清水光子姐)は「大西を殺る」と気炎を上げ、海生逸一(阿賀・呉の顔役)に諌められたとのことです。

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2011年5月 1日 (日)

JR呉駅

呉市の陸の玄関口。1日平均乗降客は12,960人(2008年度)。駅ビルは20以上のテナントが入る商業施設となっており、また周辺にはホテルや百貨店・ショッピングセンター、大学サテライトキャンパス、観光施設が集積して、都心の様相を呈しています。

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1947(昭和22)年5月、呉の新興組織・山村組の組員と旅(他所者)のヤクザとの喧嘩に端を発して、助っ人を買って出た一不良青年・美能幸三が旅のヤクザを射殺しました。場所は呉駅から5、60メートル離れたところにあった某事務所の前。

「仁義なき戦い(死闘篇)」に、その事件の状況を記した記述があり、その中に「(喧嘩に加わった山村組組員は)いまの(旅のヤクザ)に追いかけられて、川へ落ちとるよのう」というくだりがあります。この「川」とは堺川のことと思われるので、事件現場は現在の「山崎屋弁当」のあたりではないかと…。

この事件をきっかけとして美能幸三は山村組に入り(※)、やがて大きな抗争の渦に巻き込まれていくことになります。

※後年、美能さんが語ったところによると、彼は山村辰雄組長から盃をもらっていないとのこと。つまり、正式にはヤクザの親分子分の関係ではなかったということになります。衝撃的な事実です。

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