2012年11月 4日 (日)

「仁義なき戦い」シナリオ改訂中

前回の記事で紹介した、歴史シミュレーションゲーム「戦国史」の「仁義なき戦い」版シナリオですが、小手調べとはいえ、あんまりしょうもなさ過ぎるので、改訂中です。

Capu0032

Capu0033

呉だけでなく、広島や備後地区にも範囲を広げたいけど、一気にそこまでやるのは少々しんどいので、ステップ・バイ・ステップで。

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2012年10月30日 (火)

「仁義なき戦い」シミュレーションゲーム?

「戦国史」という歴史戦略シミュレーションゲームがあります。

その名のとおり、戦国時代を舞台に大名の一人となって天下統一を目指すものですが、このゲーム、シナリオを自作できるという特徴がありまして、その中身によっては、まったく違うゲームに変貌させることもできます。
特定の地方に徹底的にこだわった戦国ものや世界史もの、宇宙を舞台としたり、まったく架空の世界を創造したりすることも可能なのです。

そこで、思い立って「広島抗争」をテーマにシナリオを作成してみることにしました。

どうせやるなら本格的な抗争シミュレーション(?)にするつもりなのですが、練習というか小手調べとして3日で1本作ってみました。マップから丁寧に作るとなると、相当の労力と時間が必要になるようですが、あくまでお試しということで、かなりしょーもない内容です。

「わりゃ、ナメとるのか」とお叱りを受けるほどのレベルですが、ま、せっかく作ったのだから公開します。間違ってプレイして、あまりにひどくても怒んないでくださいね。

「戦国史」本体はこちらからダウンロード可能(→「戦国史」公式サイト)。フリーウェア版でプレイできます。

シナリオ「仁義なき闘い」はこちら

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2012年10月13日 (土)

土曜日の惨劇

1963(昭和38)年9月22日付 中国新聞

Doyoubi

またピストル撃ち合う-広島の繁華街

組員ふたり死傷
抗争、再び表面化

土曜日の宵。広島市内の繁華街でまたピストル事件が起き、ふたりが死傷した。広島県警本部と広島市内三署は4月から呉、広島でくすぶり続ける暴力抗争事件の再燃と見て厳重な警戒網を敷いている。

二十一日午後八時前、広島市下流川町東新天地広場近くで、打越山村両組の数人ずつがけンカ(原文まま)し、山村組、同市皆実町二丁目、宮木敏明組員(二〇)が右肩、右ワキ腹をピストルで撃たれ、同市幟町の病院に収容されたが重体。さらにその直後、二、三人が逃げる数人を追い、約七、八十メートル西側の同市流川町広島ビヤガーデン近くで一人がピストルで撃たれ、同市基町の病院に運ばれたがまもなく死んだ。広島県警本部と広島東署の調べで死んだのは同市吉島新町一丁目、打越組の谷村祐八組員(二一)とわかり腹巻きの中にあった実弾五発入りの回転式ピストル一丁とマッチ箱に入っていた弾十発、第一現場付近で薬きょう一個を押収した。

県警本部と広島東署は4月からの打越、山村両組の勢力争いによる抗争事件の一連とみて広島西、宇品各署の応援を求め、関係者から事情を聞き厳重に捜査し、二十二日午前零時半すぎから関係者宅三カ所をピストル不法所持の疑いで捜索した。

これで抗争事件による死者は六人、押収したピストルは二十九丁。

現場は広島市内の繁華街で土曜日の宵と重なって一時混乱した。

山村組関係者方への爆発物投げ込み事件からいったん平静になっていた抗争事件は再燃し、ピストル殺人事件でついに再び表面化した。県警本部は事態を重視して城内捜査二課長が現場近くの広島東署流川派出所で捜査を指揮し、数百人の警官が緊急配備についた。

宵の繁華街、市民の目の前で起きた事件だけに市民は異常な憤りを示している。ちょうど現場を通行中の会社員(二五)は「パン、パーンとピストル音が二度聞こえたとたん数人が走った。そのあとを二、三人が追い、一人に追いつきざま首筋にピストルでなぐるような格好で発射した」といい、東新天地広場に店を出している主人(五一)は「十人くらいの組関係らしい男がビールビンを持ってケンカし、すぐあとピストルの音がした。繁華街で撃ち合いがあるようでは安心して商売もできない。おそろしいことだ」と語り、近くのバーのマダム(四三)は「相つぐピストル事件以来、客が半減した。このままでは商売も上がったり。徹底的に捜査して一日も早く明るい街にしてほしい」と話していた。

死傷した組員二人(重体の宮木も3日後に死亡)の顔写真、以前に比べてヤクザらしい風貌になってきました。

二十歳の宮木敏明組員ですが、当記事以外の資料ではすべて“宮本”敏明となっています。

この事件の容疑で逮捕されたのは、打越会の柳秀雄ら5名、山村組の鄭照謨ら2名ですが、繁華街での傍若無人な乱射事件を重く見た広島県警によって、翌日、大物(?)が逮捕されました。山村組の山村辰雄組長と打越会の打越信夫会長です。

県警の“頂上作戦”によって、抗争当事者のトップ2名が戦場から隔離されたわけですが、その翌々日には、山村組員による神戸・山口組本家爆破事件、打越会員による山村組若頭・服部武宅銃撃事件と山村組長宅爆破未遂事件が起こりました。

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2012年9月10日 (月)

今ここにある最後の総会屋

民主党の仙谷由人政調会長代行は、「最後の総会屋」と呼ばれた大物総会屋・小川薫(故人)の弁護士だったそうで。

Wikipediaからの引用 ---->
総会屋・小川薫の弁護士を務め、暴力団幹部十数名と2週間のヨーロッパ旅行に行くなど、暴力団関係者と深く交わる。1976年のヨーロッパ旅行について、小川薫は著書『実録総会屋』(ぴいぷる社)234ページで、「たしかに、このツアーは私が費用を全部持って、週刊新潮が言うヤクザ組織の最高幹部が同行していたのは事実だ。美能組の組長夫妻、浅野組の組長夫妻、共政会の組長夫妻、共政会の三代目夫妻も参加していた。しかし、別にヤクザだけを連れて行ったわけではなくて、お世話になっている弁護士の先生も一緒だった。現在、民主党の有力代議士の仙谷由人先生も一緒だった。仙谷先生には、私や小池隆一君の弁護をお願いしていたのだ。この仙谷先生とは旅程の間、ずっと同室だった」と記している。
<----- 引用終わり

その筋の方々とべったり密着です。島田紳助は引退に追い込まれましたが、このおじさんは大丈夫なんですね。

ちなみに、小川薫の実弟は小川成海氏。広島県の高校野球界では知られた方ですが、数年前に傷害か何かで逮捕されてしまいました。

また、小川薫の用心棒的存在だったのが三宅譲。そう、佐々木哲彦射殺の実行犯です。

小川薫の半生をモデルとした映画(↓)

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2012年7月29日 (日)

「YAKUZA Wiki」氏名の誤り?

「YAKUZA Wiki」の「初代共政会」のページ

数名の方のお名前が?です。こうじゃないかと思うのですが…

津村足義 → 津村是義
横奥森平 → 横奥喜平
熊中義一 → 熊本義一
進原敏嗣 → 進藤敏明

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2012年7月 8日 (日)

極道グッズ 販売(?)サイト

こういうサイトを見つけました。

任侠グッズ・代紋・バッジ(バッヂ)・名刺・極道グッズをお譲りします

当然ですが、「表には決して出さないように注意下さい」とあります。悪用する不心得者がいないよう願います。ヘタな使い方すると、使用者自身の身も危ないし…

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2012年6月26日 (火)

相互リンク 開設

このブログ、運営歴はけっこう長い(約6年)のですが、このたび初めて[相互リンク]のコーナーを開設しました(左サイドバー中ほどです)。

ありがたいことに、オファーをいただきましたもので…。

気がつくと、ここ3ヶ月あまり更新が滞っていますが、これを機に復活させないといけませんね。先日紹介いただいた、『実録 広島極道刑事(デカ)』を読むしかないでしょうか。

実録 広島極道刑事(デカ) (徳間文庫)

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2012年3月 9日 (金)

なぜ「悪魔のキューピー」は電車に乗らないのか

このブログの運営と並行してツイッターにも手を出していまして、そちらでは、広島抗争を扱った文献の中から、名言(迷言?)をピックアップしてつぶやいておるわけですが、本日、次のようにツイートしたところ・・・

「警察に会うたら電車の中じゃ逃げられん。逃げられんいうことは、撃たにゃいけん、殺さにゃいけんけん。わしゃ歩くんじゃ」大西政寛

「どのシーンの台詞ですか?」という返信をいただきました。ツイッターの制限文字数140文字以内では回答しきれませんので、この記事内で紹介します。

この台詞は、戦後の広島県呉市の極道界で、最も凶暴と恐れられた「悪魔のキューピー」こと大西政寛のものです。

映画「仁義なき戦い」では「若杉寛」として梅宮辰夫が演じた役ですが、映画の中ではこの台詞は出てきません。本堂淳一郎著「悪魔のキューピー『仁義なき戦い』外伝・大西政寛の生涯」が出典です。

悪魔のキューピー―「仁義なき戦い」外伝・大西政寛の生涯

以下、該当箇所を抜粋します。

戦後の(呉の)焼け跡にはじめて市電が通った頃な、本通りから広長浜まで電車で行けるのに、広におった(住んでいた)大西は絶対に電車に乗らんと、コトコト、コトコト歩いて帰ったんじゃそうじゃ。
「電車で帰らんかい」
爺ちゃんがレールを指して言うと、大西は答えたそうじゃの。
「警察に会うたら電車は逃げられん。逃げられんいうことは、わしゃ撃たないけん、殺さないけんけん、わしゃ歩いて帰るんじゃ」

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2012年3月 1日 (木)

樋上実射殺事件

1970(昭和45)年7月1日付 中国新聞

Hinoue

樋上組長射殺される

夜の呉市内 暴力団抗争が再燃

流れダマで市民負傷

対立の美能組員が自首

【呉】三十日夜、呉市内の繁華街の路上で暴力団組長がピストルで射殺され、通行人一人が流れダマに当たってけがをした。広島県警と呉署は暴力団の抗争事件とみて捜査している。

同日午後九時二十分ごろ「呉市中通四丁目の交差点で男がピストルで撃たれて血まみれになって倒れている」と通行人が呉署へ一一〇番通報してきた。同署で調べたところ、同時刻ごろ中通四丁目、銀座デパート近くの市道交差点で暴力団共政会副会長・樋上組、樋上実組長(四六)=呉市東中央一丁目=が同組の福森明組員(三〇)=同市荒神町=ら二人と一緒に歩いていたところ、若い男に至近距離で背後からピストルで胸、腹など全身に七発の実弾を受け即死した。同署は現場付近一帯で、薬きょう七個を押収した。
同署は全署員を非常呼集して捜査中、同九時半すぎ、呉署に「オレがやった」と暴力団美能組組員木元敏治(二三)=同市本通四丁目=が樋上を射殺したのに使ったとみられるコルト四五口径のピストル一丁を持って自首してきた。同署は重要参考人として調べていたが、ピストルから硝煙反応があったため同十時、木元を殺人の疑いで緊急逮捕した。この事件で付近を歩いていた呉市上畑町、中央ゴルフ場会計主任岡崎哲男さん(七〇)が流れダマを下腹部に受け、近くの中川病院に収容されたが、二週間のけが。

現場は同市本通り四丁目の国道一八五号線から西にはいった映画館やデパートが立ち並ぶ市内でもっともにぎやかな場所。樋上組長は交差点のほぼ中央に上向きに倒れており、付近一帯は血の海だった。樋上組長射殺事件に対し広島県警と呉署は第二、第三の事件発生に備え武装した私服警官や機動隊員約百九十人を市内要所に配備し、厳戒体制をとっている。

広島県警捜査二課と呉署は、自首した木元のほかにも共犯者がいる可能性があるうえ、樋上組長の射殺事件をきっかけに、暴力団抗争が再燃する恐れもあるとして、国道三一号線や国道二号線を中心に検問を強化し、応援組員が呉市内にはいるのをチェックするとともに警官約八百人を動員、広島、福山、尾道、三原などの関係暴力団員の動向を警戒している。

報復の繰り返し

広島県警操作二課では、樋上組長射殺事件は、暴力団共政会山村組系の主流派と、村上組経反主流派の“血を血で洗う”抗争、対立の結果と見ている。
両派の抗争事件は、昨年十月中旬、共政会の山田久理事長(四〇)が村上組員にピストルで襲撃されたのが発端、同十一月中旬には、その報復として、村上正明組長(五三)の舎弟で、同組のブレーンだった呉市内の暴力団宮岡組の宮岡輝雄組長(四四)が、共政会山村組員らにピストルを乱射され射殺され、両派の反目は決定的となっていた。また、今度、射殺された樋上組長は、共政会主流派で、副会長のポストにあった。昨秋、射殺された宮岡組長と同じ呉市内をナワ張りとし、互いに勢力を張り合っていた、などの点から、同県警捜査二課では“万一、報復射殺事件が発生した場合は、樋上組長が狙われる公算が強い”とみて、対立する両派の動きをマークしていた。
また、共政会と対立関係にあった呉市の暴力団美能組の美能幸三組長(四五)が今秋、刑務所を出所するという事情もからみ、呉市を舞台とする暴力団抗争が再燃するおそれもあるとして、同県警と呉署は、五月初め、呉地区暴力団取り締まり本部を設置、これまで四次にわたる一斉手入れで五十四名を逮捕するなど、先制取り締まりを続けていた。それだけに、捜査陣のショックも大きかったようだ。
樋上組長は、四十三年五月、長崎刑務所を出所後、共政会の服部武会長(四五)ら同会幹部が服役中の同会にあって、山田理事長と協力して組織の立て直しにあたった実力者だった。また、樋上組長の射殺事件で暴力団抗争が一層エスカレートするおそれがあるため、同県警では、共政会主流派の服部派、十一会の動向、美能組の藪内勲幹部(三四)の動きについて、厳戒体制を強めている。

事件の表面だけを眺めると、わりとシンプルな対立抗争事件ですが、この後の動きが少々不可解です。

記事中にもあるように、この事件の3ヶ月後に美能組・美能幸三組長が札幌刑務所を出所します。時期が時期だけに出所は厳戒体制の中で行われ、刑務所から千歳空港までは北海道警の警察官が、羽田到着後は警視庁が身辺警護にあたるといった物々しさで、地元・呉からの放免迎えの面々が待つ品川プリンスホテルまで、何度もタクシーを乗り換えて向かうというありさまだったそうです。

それはともかく、美能組長は樋上組長射殺の責任を取る形で極道からの引退を決意し、その後、関係者が一同に会して美能組長引退後の呉・広島について話し合う場がもたれますが、メンバーは服部武・原田昭三・山田久(以上共政会系旧山村組)・竹野博士(共政会系十一会)・美能幸三・藪内威佐男(以上美能組)・小原光男・坂本忍(以上小原組)。そう、樋上組関係者の出席がありません。今後にしこりを残すことなく、四方円満に収めようとするなら、ここに樋上組若頭(組長代行?)・長江勝亮の名があってしかるべきなのですが。

さらに言うなら、副会長という重鎮が殺られたにもかかわらず、共政会としては美能組に一矢も報いていません。もっとも、樋上組長の死は、美能組長が堅気になる(=極道としての生命を絶つ)ことでバランスがとれるという考え方もありますが、長江若頭以下樋上組の若衆としては到底おさまりがつかないでしょう。

事実、正延哲史著『最後の博徒』には、報復を実行しようとする長江若頭を波谷守之組長が押しとどめているとみられる記述があります。波谷組長としては、何とか広島抗争を終結に導きたいという思いからの行動ですが、共政会が組織として動かなかったことについては、服部武や山田久ら共政会幹部の面々に、波谷組長とは違った思惑があったのかもしれません。

いずれにせよ、樋上組残党に対する冷遇とも言うべき措置が、大阪事件(山田久襲撃事件)の際の長江若頭上阪拒否から絶縁処分へとつながっていくことになるわけです。

この事件が描かれたDVD(↓)

<東映オールスターキャンペーン>仁義なき戦い 完結篇 [DVD]

「仁義なき戦い 完結篇」です。映画では田中邦衛扮する槙原政吉(樋上実がモデル)は、白昼の呉市中通商店街で露天をひやかしている最中、広能組組員によって射殺されます。

「仁義なき戦い」のDVD、購入はちょっと・・・という場合は、レンタルという手も(↓)。

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2012年1月28日 (土)

呉中通サン劇前拳銃乱射事件

1971(昭和46)年1月17日付 中国新聞

Jingi04

呉で暴力団がピストル乱射

巻き添え市民重傷

樋上組? 美能組員を襲う

【呉】十六日夜、呉市内の繁華街で暴力団幹部ら二人がピストルで襲われ重傷、通行中の女子店員にも流れダマが当たり重傷を負った。さらに約二十分後この現場から約五百メートル離れた美能組組長の経営する事業所が襲われ、留守番中の同組員一人が重傷を負った。広島県警と呉署は、同市内で美能組の抗争中の暴力団樋上組関係者の犯行とみて呉署に美能組襲撃特別捜査本部を設け、県下各署に緊急配備、各地で検問をはって、厳戒体制にはいっている。【15面に関連記事】

美能組 幹部ら三人重傷

同日午後八時二十分ごろ「中通四丁目の路上で数人がピストルで撃たれた」と呉署に急報があった。同署で調べたところ、同時刻ごろ同市中通四丁目、サン劇前の市道で、暴力団美能組田島重徳幹部(三三)=同市和庄本町=、同小原組梅本輝行組員(二三)=同広町=が、突然一人の男にピストルを乱射され田島幹部が右腰、右腕の計二ヵ所、梅本組員は一ヵ月の重傷。
この乱射で通行中の同市棚田町店員清水美紀枝さん(一九)の右足にタマが命中、倒れたはずみで首の骨を複雑骨折し、同中央四丁目、大矢整形外科へ収容されたが二ヵ月半の重傷。
同署で捜査中、第一現場から約五百メートル東に離れた同市本通四丁目美能組藪内勲組長(三四)の経営する三平興業が襲われ、留守番中の高橋繁男組員(ニ九)=同市三城通二丁目=がピストルで三発撃たれ、うち一発が右足に当たり、後藤病院に収容されたが重傷。
同署の調べでは同夜八時ごろ、呉市本通三丁目付近で長江が田島ら美能組員とけんかとなり、同組員の一人が長江をなぐった事実もあるのと、高橋組員が「撃ったのは樋上組の長江だ」と言っていたことから、昨年六月三十日夜、第一現場近くの路上で美能組員に射殺された樋上組樋上実組長(四六)の跡目を継いだ樋上組二代目組長長江勝亮(三四)=呉市辰川町=の報復犯行ではないかとみている。

突っ込みどころが二箇所ほど。

二代目美能組「藪内勲」組長とありますが、一般的には「藪内威佐男」で通っていたはず。ずいぶん前にお亡くなりになりました。プロ野球選手(南海ホークス在籍)から転身した異色の極道として知られています。

もう一箇所は、最初から記事を丹念に読んでいくと、最終段落に「呉市本通三丁目付近で長江が田島ら美能組員とけんかとなり…」と、唐突に「長江」組長の名前が出てきます。これでは、予備知識のない読者にはわからんでしょう。

記事には「樋上組二代目組長・長江勝亮」とあります。実質的にはそのとおりですが、正しくは「樋上組組長“代行”」だったのではないでしょうか。

「仁義なき戦い」にはあまり登場しませんが、原作本には代理戦争開始直後に名前だけがほんの数行出てまいります。ところが、そこには「長江」ではなく「長上」、しかもご丁寧に「ながかみ」なんてルビまでふられて。どこかで間違いが生じたのでしょうけど、こんなことやってるから怒られるんですよ。

“最後の博徒”波谷守之組長は長江代行を高く評価していたらしく、波谷組長の手記をもとにした「最後の博徒」では、長江代行が共政会から絶縁されて侠道会に身を投じる決意を固めた際、波谷組長のもとに報告に来た時のやり取りが記されています。

===== 引用始まり =====
大阪で事件が起きて、共政会と侠道会が全面対決したとき、長江が訪ねてきた。
「叔父さん、私のようなガキを何度も説得して下さって有難うございます。今日からは、侠道会に従いて流れようと決めましたけん、報告に来ました。叔父さんの言うことを聞けませんでしたが堪えて下さい」
「わかった。長江よ、長生きしたら苦しいど。早うよい散り場所を見つけて散れよ」
私はそう言って別れた。
その後、月日がたって、長江は殺人未遂で十五年だったと思うが、長期刑をうたれて服役している。一審判決がでた時、あまりにも刑が重いので友人たちが控訴をすすめたが、長江は断わった。
「われわれヤクザ同士だけが、殺った殺られたということなら控訴するんじゃが、堅気の娘さんにまで怪我させちょるけん。わしの刑が高い安いと言ったら、娘さんの親御さんのバチが当る」
長江はそう言って服役したそうだ。
===== 引用終わり =====

長江代行、侠客ですねぇ。

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